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1月11日のデモ行進

行ってきました。(某地方都市で)日本のインターネット上の情報は少しアメリカ的な見方だなあと感じたので、このテキストを書いています。

まず、伝えたいことは、このデモ行進は、反イスラムが目的ではないということです。説明が長くなるので、先にいいます。「民主主義が暴力の前に危機にある。民主主義を守ろう」というのがデモ行進の目的なのです。

実は、私は行くのが怖かったのです。人が集まるところはテロの標的になりやすいから。しかし、プラカードの中に「わたしはこわくない。」という「暴力に屈しない」というのをちらほら見かけました。わざわざそんな言葉を掲げてあるく人々を見たそのとき私はわかりました。「なーんだ、みんな怖いんだ」と。

ソクラテスの昔から、ガリレオの時代、ソ連の粛清、文化大革命、それから日本では治安維持法など、言論の弾圧は行われてきました。「出る杭は打たれる」ではありませんが、人と違った意見を持つものが抹殺されるのは昔から存在します。日本は特に、少しでも違った考えの人がいると悪とばかりに攻撃する風潮があるように思います。

人間社会は、この、力ある者が、自分の意に染まないことをする者を消し去る、という独裁、全体主義をやめて、民主主義を目指したのです。暴力を恐れて沈黙することは、悪いことである、ということは、ヨーロッパでは、ヒトラー政権のユダヤ人迫害という暗い過去によって、強く認識されています。

「いじめを見て見ぬふりをするのはよくないことだ」と分かっていても、声を挙げることで今度は自分が標的になるのが怖い。

ヨーロッパ人だって、声を挙げるのは怖い、と書きましたが、日本人と違って行動を起こすのはなぜでしょう。それは、市民革命を経て、自分たちが権利を勝ち取り、民主主義というシステムの中でその権利を保つ、という意識が浸透しているのではないかと思いました。それと、ヨーロッパはいろいろな違った民族、文化、宗教で複雑に構成されています。誰が、いつ、「異端」とされて抹殺されるかわからない不安が、昔からあるのだと思います。

アメリカのフィルターを通して、フランスで起こった痛ましい事件が、単なる2項対立、テロに対する憎悪としか見えないとしたら、日本人にとっては残念なことだと思います。

*写真は

http://www.lesechos.fr/monde/europe/0204070808033-charlie-hebdo-des-manifestations-aussi-dans-le-monde-entier-1081970.php より。

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