「ふつう」という考え方の怖さ

ある投稿に「子供の運動会と仲の良い友人の結婚式とどちらに出るべきか」という質問があり、「運動会でしょ。ふつう」という意見があり、いかも多数だったのでびっくりした。

運動会は毎年ある。一方結婚式というのは一生に一回あるかないかの行事である。それに、自分がでなくてももう片方の親が行けばいいし、あとでビデオを見ればいい。「結婚式でしょ。ふつう」(仲の良い友人であれば。であるが。)が、わたしの普通である。

自分との関係の重要度で考えるかもしれないが、長い人生、自分をひとりの個人として考えると、友情だって大切だ。ご近所づきあいや、社宅の会社での付き合い、といった共同体の枠組みが次々にくずれ、子供にべったりの、一歩間違えればモンスターペアレンツになるような密な家族のみの人間関係だけだと、うつ病などアンバランスになるのは当然であろう。そもそも、人間は群れをなして生きる動物なので、閉鎖された密な関係しかないと、心も体もおかしくなる。

最近、閉鎖された密な関係、つまり親子関係で歪みがでている。親子べったりの人もいれば、育児放棄ネグレクトの親子関係も、それこそ「普通」にあふれている。介護疲れや育児疲れで、親が子を、子が親を殺したりするのはどうみても「普通」じゃない。関係性が煮詰まりすぎて、心も体も逃げ場がなくなるのだ。

いじめの問題だってそうだ。子供だって、学校だけではない、いろんな共同体の枠を持っていた。まず、兄弟(昔は人数が多かったから)そして、年齢も多少ことなる近所の子供、近所のおじさん、おばさん、親戚のいとこや、叔父さん、叔母さんなど、いろんな人をみて、自分を確認できた。

日本は、思想的に西洋とはちがい、自己を認識するための学問やメソッドというものがある程度確認できたが、日本では、社会のなかでの自分の身分や立ち位置で、自己を認識する。共同体が崩壊している現代では、どうしていいのかわからなくなってきているのだ。

このように自分のまわりからどんどん共同体がなくなって、なにを基準に物事を考えたらいいのかわからなくなってしまっている。それでインターネットに「どちらにでるべきか」という「べき論」を質問する投稿があふれるのであろう。

ついでに、私の普通をいうと、「出たい方にででれば?」である。一生に一度あるかないかの友人を祝いたいと思えばそちらにでればいいし、子供を溺愛していて、どうしてもこどもの運動会を見たいと思えばそちらへ行けばいい。決まりや罰則なんてないのだから。

「教師が有給休暇をとって、勤務先ではなく、自分の子供の卒業式や入学式にでるのは言語道断」という意見がネットをにぎわしている。どんだけ自分の子供を溺愛すればいいのだろうか。「これって普通ですか」?

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