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Desideriumとテレビ石


英語には、日本語ではひとつの単語として表現できない意味を持つ単語がいくつかある。
例を挙げると
Petrichor... 雨が降った時に、地面から上がってくる匂い
Ambisinistrous...両手が左手である状態、転じて両手が左手であるかのように不器用で危なっかしい状態
Azymous...イーストを入れられていないパン
Artolater...パンを崇拝する人
Paneity...パンがパンである状態
などなど。
調べてみるとこれがなかなかどうして面白い。
なぜかパンについてやたら言及してある単語が多いが、これはキリスト教においてパン=キリストの肉体でありパンを神聖視していることに関係があるとかないとか。
言語によって文化や宗教の違いが浮き彫りになるのは非常に興味深いものである。
とまあそんなことを思いながら調べていくと、ひとつの単語が僕の目に留まった。
Desiderium。
意味は「以前所有していて現在所有していないものをもう一度所有したいと強く思う気持ち」である。
この言葉を聞いて思い浮かべるものは人によって様々だろうが、僕の場合Desideriumの対象として思い浮かんだのはテレビ石と呼ばれる小さな石ころであった。
これはパッと見五百円玉を5〜6枚重ねたような形の白い半透明のただの石なのだが、驚くなかれこの鉱石にはある能力が備わっており、なんと文字が書いてある紙にこれを乗せると石の上にまるで表面がテレビの画面になったかのように文字が浮かび上がって見えるのだ。
まあ、だからなんだと言われれば、それまでなのだが。
しかし当時小学生の僕は、母がどこかの土産物屋で買ってきたらしいこれにすっかり夢中になったのである。
上から見ると確かに石に文字が写っているのに側面をみると石は相変わらずの半透明色で、まるで文字が石の中を短距離ワープして浮かび上がっているようにしか見えない。
一体なぜこんな現象が起こるのだろうか、僕はその神秘を解き明かすべく家中の紙という紙の上にこれを置きまくった。
色々実験も行った。
石を水に濡らしてみたり(濡れてもちゃんと写った)、石を紙からほんの少し持ち上げてみたり(ほんの1mm程度持ち上げただけで石の表面は半透明色に戻った)、紙以外の物の上にも乗せてみたり(平らな物体の上ならちゃんと写った)、本当は石を割って中を確かめたりもしたかったのだがもう二度と手に入らないかもしれない宝物を破壊する勇気はなかった。
出先にも必ずポケットに突っ込んで持っていき、ことある事にテレビ石を取り出してその度に文字や絵の短距離ワープに新鮮な感動を覚えた。
いつも当たり前のように感じていたものが、テレビ石を通して見ることで全く新しい世界を覗いているような気分になったのである。
しかしテレビ石は僕がその神秘を解く前に僕の手から忽然と姿を消してしまった。
家中をひっくり返して探したが見つからなかった。であればいつかの外出で無くした可能性しか考えられないのだがそれならもう取り戻しようがない。
僕はほんとうに、それはそれはほんとうに落ち込んだ。
失って初めて気づいたのだが、僕にとってテレビ石はもはやただの宝物というだけに留まらず、いつのまにか僕に新しい世界を見せてくれるいわば相棒のような存在になっていたのだ。
ずっと一緒に過ごしてきた相棒との別れは小学生の僕にはあまりに耐え難く、僕は新しいテレビ石を買ってくれるよう母にねだった。
母も僕の落胆ぶりを見かねてすぐに通販で以前持っていたものと同じサイズのテレビ石を買ってくれたのだが、どうもいまいちしっくりこない。
厚さがほんの少し薄かったり石の透明度が若干低かったり、多分僕にしか見分けがつかないのだろうが僕からしてみれば相棒とは似ても似つかないこの石ころを彼の代わりとして扱う気分にはどうしてもなれなかった。
僕のテレビ石はもう二度と戻ってはこないのだ。

あれからもう10年以上経つが、あのテレビ石は今どうしているのだろうかとふと考える。
とっくにゴミとして焼却されて塵になっているのだろうか、あるいは傷だらけになりながらまだ路傍にでも転がっているのだろうか。
いやひょっとしたら、かつての僕のような人に拾われてその人の宝物になっているのかもしれない。
そうであればいいなと思う。

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