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人生最悪の日


午前6時30分

目が覚めた。

ここ最近は、目覚ましも使っていないのにやけに朝が早い。

というのも、夜は日付が変わる前にさっさと寝てしまうようになったからだ。

夜中に独りで部屋にいても、嫌なことばかり考えてしまうから。

とはいえ早起きしたところで特に何をするでもなく、ただベッドの上でスマホをいじるだけである。

とにかく何も考えたくない。

何も

YouTubeを見たり、Twitterを見たり、必死に気を紛らわそうとする。

でもどうしても頭から離れない。

「本当はこんなことしてる場合じゃないだろ」

「他にもっとやるべきことがあるはずだ」

「頼むから目を覚ましてくれ」

もう1人の僕が頭の中で警鐘を鳴らしている。

しばらく無視を決め込んでいたが、うるさくて仕方がないので、渋々現実と向き合うことにした。

今日は大学の期末試験の日だ。

...

...

...



僕が大学に行かなくなってもう2ヶ月が経つ。

きっかけはほんとうに些細なことだった。

ある平日の朝、どうにも学校に行くやる気が出ないときがあった。

だがこんな気分になるのは特別珍しいことではない。

中学高校時代もベッドから出るのが嫌な日はあったし、それでも普通に学校に通うことはできていたのだ。

しかし今回は僕を取り巻く環境が大きく変わっていた。

まず大学進学を期に一人暮らしを始めたことで、僕が学校に行くよう毎朝ケツを叩いてくれていた母はもういなくなっていた。

そして僕はなんとなく、大学はサボりという行為が中学高校より軽く扱われているようなイメージを持っていた。

「今日の授業は出欠取らないやつだけだし、1日くらいいいよね!
学校行けってうるさい親もいないし、中学高校はともかくとして、大学サボるって別に珍しい話じゃなさそうだし...
今までやってこなかったけど、こうやって授業サボってみるのもある意味大学生っぽいかも?」

この日初めて、僕は授業をサボった。

とはいえ僕に、授業をサボってまでやるべき用事などあるはずもない。

相も変わらず部屋でのんびりゲームをしたりして過ごすだけだった。

ただ、胸に抱くほんの少しの背徳感が刺激的で心地よく、何か一つ大人の階段を登ったような気になった。

あの日で止めておくべきだった。

「ぼーっとしてたら次の日になっちまったなぁ。
昨日はなんかサボっちゃったけど...
ま、今日もサボっちゃっていいかな!
まだ授業始まってそんな日にち経ってなくて内容も簡単なものだし
ちょっと休んでもすぐ追いつけるって
さーて今日は何しようかなぁ」

この日、僕は授業をサボった。

次の日、僕は授業をサボった。

次の日、僕は授業をサボった。

次の日、僕は授業をサボった。

次の日、僕は授業をサボった。

次の日、僕は授業をサボった。

次の日、僕は授業をサボった。



不安と焦燥。

学校を休めば休むほど、僕は学校に行きづらくなっていった。

ベッドから起き上がるのが日毎に難しくなった。

いつものように通っていた学校までの道のりが果てしなく遠く感じるようになった。

力を振り絞って何とか登校できた日もあったけど、いつも長続きせず、結局元の不登校に戻ってしまった。

一日一日と積み重なっていく失敗体験は、僕の自信を少しずつ、だが確実に奪っていった。

今日も学校に行けなかった。

今日も学校に行けなかった。

今日も学校に行けなかった。

今日も学校に行けなかった。

今日も学校に行けなかった。

今日も学校に行けなかった。



結果だけ見れば、僕の大学生活が順調だったのは入学してわずか2週間ほどだった。


...

...

...


何の気なしに久しぶりにメールボックスを開くと、いくつかメッセージが届いているのに気づいた。

授業担当の先生からだ。

『〇〇君、お元気ですか。
最近出席がないので心配しています。
もうすぐ期末試験ですが、受けられますでしょうか。
貴君は現在出席も提出物も足りませんので、このままですと単位を差し上げることができません。
本講義は必修科目ですので、これを落とすと留年する可能性が極めて高くなります。
しかし期末試験を受ければ、その成績に対して補講なり追加の課題なりの対応を取ることができます。
とにかく試験を受けて評価されないことには対処のしようがありませんので、もし貴君に通学の意思があれば期末試験を受けに来てください。
よろしくお願いします。』

似たような内容のメールが他の授業担当の先生からも来ていた。

要は僕を助けたいから期末試験だけは受けに来いということらしい。

なんて親切な人たちなんだろう。

僕は彼らを殺してやりたくなった。

今更希望をちらつかせないで欲しかったからだ。

このまま絶望にどっぷり浸かって死んでしまいたかったからだ。

だって、ああ

また始まった

「これが最後のチャンスだ。
今学校に行けば間に合う、まだやり直せる。」

「もう無理だ、やり直せない」

「留年すれば本当に取り返しのつかないことになる。
将来に響くだろうし、親もきっと悲しむ。
それでもいいのか?」

「もういい、どうなろうと知らない」

「学校に行くなんて簡単なことじゃないか。
みんな当たり前にやってるし、僕も昔はそうだったはずだ。
そんな簡単なことがなぜできない?」

「それは僕が弱いからだ。
今ではたった一回学校に行くだけで凄まじい勇気が要る。
それこそ自分を殺すくらいの勇気だ。
こんな苦しいことを毎日続けろだって?
冗談じゃない、僕にはできない」

「そうやって...ごちゃごちゃ理屈を並べるからいつまで経っても動けないんだろうが!
いいから動けよ!学校行けよ!この軟弱者!ゴミクズ!親不孝の最低野郎が!」

「うるさいうるさい!僕にはもう無理なんだ!行けないんだ!頼むからほっといてくれよ!」

学校に行こうとする自分と、学校に行きたくない自分。

まるで綱引きだ。

そして僕らが引っ張っている綱は、僕自身の心。

心が千切れそうになる。

痛い、辛い、苦しい

尋常ではない苦痛だった。

一刻も早くこの苦しみから逃れたいと思った。

スマホをいじって気を紛らわそうとするが、しかしなんの役にも立たない。

誰かに助けを求めようとするが、その気力はとうの昔に失われていた。

本当に限界になると人は助けを求めることすらできなくなる。

結局僕にできるのは、薄暗い部屋の隅にうずくまって、心が引き裂かれないよう必死で耐えることだけだった。



午前8時

あと10分以内に家を出てバスに乗れば、試験開始に間に合う時間だった。

あともう少し、あともう少しで決着が着く。

楽になれる。

僕はもう学校に行くとか行かないとかどうでもよくなっていた。

どちらかが勝ってくれればそれでいい。

そしてどちらが勝つかは、ほぼ明白だった。

壁にかかった時計を凝視する。

秒針がゆっくり、かつてないほどゆっくりと進んでいた。

9分

8分

7分

6分

リミットが迫る。

僕が僕を玄関に向かって渾身の力を込めて引っ張る。

僕が僕を決死の思いでベッドに縛りつける。

側から見れば僕ただ部屋の隅に座っているだけだが、心の中では壮絶な戦いが繰り広げられていた。

5分

4分

3分

この2ヶ月、僕は希望と絶望の狭間でずっともがき苦しんできた。

その戦いが、今終わる。

最悪な形で。

2分

1分

突然、全身の産毛が逆立つような感覚になった。

背筋がゾクゾクする。

興奮しているのだろうか。

自分の人生が台無しになることに

自分で自分を破滅させることに

僕は

その感覚に


ほんの少し、快感を覚えた

0


...

...

...


僕は仰向けになってベッドに寝転がっていた。

試験時間はもうとっくに終わっているだろうが、もうさしたる興味も湧かない。

空はまだ昼前で明るいが、部屋の電気はつけずカーテンも閉め切っていた。

陽光が青いカーテンを通してわずかに漏れ出して、小さな部屋を深く、暗い青で満たす。

まるで深海にいるような気分だった。

呼吸を奪われ酸素を吸えない。

水が全身にのしかかってきて指の一本も動かせない。

僕はこのまま水圧に押し潰されてゆっくりと死んでゆくのだろう。

だが不思議と気分は穏やかだった。

僕は、絶望に色があるならそれはきっと深い青色だろうと思った。



しばらく天井をぼーっと眺めているとなんだがウトウトしてきたので、僕はそのまま静かに目を閉じた。

それは、この2ヶ月で一番よく眠れた日だった。


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