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キリストのさまざまな肌の色をめぐって(木村智氏の論文を読んで)

今回の読書記録は書籍ではなく、イエール大学の宗教・視覚文化研究所のジャーナルに掲載されている、木村智氏の論文を拝読した記録と感想です。
タイトルは、
In Search of Multiple Colors of Christ: Daniel J. Fleming and the American Protestant Encounter with Asian Christian Visual Arts, 1937-1940
(キリストのさまざまな肌の色をめぐって:1937年から1940年にかけてのダニエル・J・フレミングの活動と、アジアのキリスト教視覚芸術に遭遇した米国のプロテスタントについて)(タイトルは私が勝手に直訳いたしました)

1930年代後半、米国のプロテスタント信徒のあいだでは金髪碧眼のイエス・キリスト像が定着しつつあるなか、宣教師でユニオン神学校の教師であるD.J・フレミングは、非西洋世界で製作されたイエス・キリストをモチーフにした美術作品を収めた3部作を出版しました。これらはアジアやアフリカで創られた作品で、イエスや周囲の人物は、現地の人間と同じ身体的特徴を持ち、現地の文化的・宗教的を背景に描かれています。論文の中で取り上げられている図版には、各地域独特の方法でイエスへの愛と敬慕が表現されていて、胸を打つ、崇高な美しさがあります。

第一次大戦後、プロテスタントもカトリックも、世界各地の精神文化を反映した伝道方法に力を入れ、キリスト教美術の一分野として実績を積み重ねてきました。フレミングは人種や民族を超えた全世界のキリスト教徒の団結を目指して活動していたので、多様性を大いに歓迎し、文化的受容を重視していました。また彼はカトリック教会による「文化的受肉」の動きにも刺激を受け、聖書が各地の言語に翻訳されるのと同じように視覚美術においても各地の芸術言語を用いるべきだと考えたのです。次元はずいぶん低くなりますが、私自身翻訳の仕事をしているためか、異文化間における精神文化の伝達・受容方法にとても興味を惹かれます。

奴隷制が終わり移民が流入していた米国の白人たちにとっては、自分たちの優位性を信じることが心の支え。おりしも大量生産が可能になり、白人イエスの肖像画が一般に普及して、普通のアメリカ人にとってイエスは白人だという観念が刷り込まれていきます。「イエスが白人なのだから、白人はほかの人種より上なのだ」というマインドセットを、イエスがお知りになったらどう思われるかと、私は勝手な心配をしています。

そんな時代にフレミングが著した異文化のキリスト美術の三部作は、キリスト教統一運動からの挑戦状ともいえるものでした。

ところでフレミングの本におさめられた視覚美術作品とそれらに対する彼の注釈を見てみると、聖書の物語を語る表象物として、西洋/キリスト教文化と非西洋/他宗教とのあいだには境界線がなければならないと考えられていたことがわかります。つまり、非キリスト教文化圏の事物は、絵の中の背景には用いることができても、イエス・キリストの体そのものを表現するときには用いるのはいかがなものか、というような態度です。

たとえば中国の画家による作品では、東方三博士はそれぞれ仏教・儒教・道教の師の姿で描かれていて、どの宗教についてもそう詳しくない私が見ても、イエスの誕生がいかにことほがれていたかが伝わる。ましてや中国の人びとにとってはもっと実感をもって受け入れられたに違いありません。ただ、その構図をよく見ると、他宗教との適切な関係、すなわち、キリスト教がすべての宗教の中で最上位にあり他宗教は下位にあること、キリスト教を補完するものに過ぎないこと、が暗示されています。
この理屈を超えた(と私には思える)優位性の確信こそが、キリスト教の伝道を駆動する力なのでしょうか。

さらに印象的なのが、日本人画家によるイエスの「荒野の誘惑」。イエスが蓮の上に座っていて、まるで解脱する仏陀のように見えます。しかし、フレミングも携わっていた「社会的福音運動」の精神からすると、仏陀は生について否定的で受動的。この偏見がある米国社会において仏陀の姿を借りたキリストは認めにくいものだったのだそう。私などは、この絵面こそわれら土着の日本人の感性にうまく訴えるのになと思ってしまうのですが。フレミングは、仏陀とはまったく違う性格のキリストを仏陀になぞらえることへの危険性を、シンクレティズム批判者なら指摘するだろう、と予防線を張っています。

このように、各国各民族のやり方で理解してくださいねと言いながらも、実際には価値観の違いを乗り越えられなかったのが多民族的(つまり有色人種の姿を借りた)イエスの表象芸術への評価でした。有色人種のイエスの受け入れについては、もうひとつのバリアがありました。それは19世紀から20世紀のプロテスタント信者のものの見方です。これを指摘したデヴィッド・モーガンの言葉が引用されており、ハタと膝を打ちました。

「…an image of someone’s body (especially the face or head) had a formative impact on the morality and character of the viewers…」
(人の体(とくに顔か頭部)には、それを見る人間の倫理観や人格を形成してしまうほどの大きな影響力がある)(拙訳です)

「倫理観や人格」は別のところでは、筆者によって「感情や行動様式」と言い換えられていて、なるほど~と納得。だから彼らにとってイエス・キリストがどんな姿をしていたかは非常に大切だった。当時の潮流に挑戦したフレミング自身でさえ、キリストの身体だけは異文化の事物をもって表象されることにためらいを感じていました。

フレミングの、非西洋世界のキリスト像を紹介したいという思いと、西洋のキリスト者の持つ度量の限界のあいだでのせめぎ合いが、歴史的背景とともに詳しく述べられ、ますます面白さを感じます。フレミングの三部作出版の10年後には、白人イエス像は、第二次大戦下や冷戦下の国民を鼓舞する役割を担うようになり、キリスト教会内での白人優位性はますます強まっていったのだそうです。

以前、ローランド・ポルティッシュの『La Machine Ernetti』(エルネッティ神父のクロノバイザー)という、実話に基づき(?)バチカンの最高機密を扱った、ワイルドなサスペンス小説を読みました。タイムマシン(みたいなもの)に乗って時代を逆行して本物のイエスを見たらなんと浅黒くて茶褐色の髪を持つ小柄な男だったことが発覚。イエスの容姿はが痩身金髪碧眼でないと困るんだバチカンは!みたいなやりとりがあって、陰謀論的な面白さを楽しんだのですが、この外見についての問題に引っかかるものを感じていました。

トニ・モリスンの『青い眼がほしい』を読んだときの衝撃もさりながら、私は以前からずっと、本当は存在しないといわれる「人種」とは、肌の色とは何か、考え続けています。なぜ私たちは容姿(とくに色)にそんなに意見を左右されるのか。難しすぎてどう考えればよいのかわからない……そんな私にとって木村氏の論文は、今まで知らなかった宗教表象芸術についての時代背景やさまざまな試みについて教えてくれました。今後、差別や分断について考えるヒントをたくさん得たように思います。

#宗教美術 #キリスト教美術 #キリストの視覚表象 #シンクレティズム #キリスト像





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