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海を眺めて

秋も深まるこの季節、休日に海沿いの公園に行ってみた。

ここは埋め立て地として有名な街で比較的新しい建物や公共物が多い。しかしその分飲食店は少なく、工場やマンションが多いいわゆるベットタウンってやつである。車道や歩道は広く、土地はそこまで広くないのにどこか余白を感じる作りで解放感があって気持ちがいい。

レンタル自転車で街を走れば車なぞなくとも快適に移動ができる。道行く人は休日の気軽さにみな顔がふやけて見えた。

海沿いの公園でまったりしようと椅子に腰かけたのはいいがしかし秋といえども日差しはある。水面に反射した光が容赦なく目を刺してくる。サングラスを持ってくればよかったなと後悔しつつも、その眩しさが心地よくもあった。

船は一切通らない湾内の海は風の影響で常に揺らいでいる。その揺らぎがどこか人の顔のように見えて、水面の住人はふっと生まれるも一瞬の瞬きの間に跡形もなく消え去ってしまう。こういう時に山や海のような静物は生きていると感じる。わたしがこうして感じていることも、さっき食べた海鮮丼の記憶も、今飲んでるぬるいコーヒーも、ここまで生きてきたウン十年も静物たちにしてみれば水面の住人のように一瞬の瞬きの出来事なのかもしれない。途方もなく長い時間を生きている彼らは時間間隔も大大大先輩なのだ。

海沿いには釣り人が何人もおり、パパたちが子供との休暇を楽しんでいた。何が釣れるのか尋ねるとさすが釣り好きに悪い人はいないらしく体験させてもらえることとなった。感謝感謝。以前深夜1時に眠い目をこすりながら父と海釣りに行ったことを思い出す。「鯛を釣るぞー!」と意気込んだものの釣れるのはカサゴばかりで、魚の種類を知らない私は何だこの不気味な魚は…!と思いながらも唐揚げを楽しんだのだった。

久しぶりに握るルアーは誰かのものということで決して離してはいけないと変に手に力が入る。その緊張が糸を伝って海に流れていくのだろう、さっきまでひょいひょい釣れていたのにピクリともしなくなった。魚だってどうせ釣られるならうまい人がいいよなそうだよなといじけながらも忍耐強く待っても全然アタリが来ない。見かねた釣り人さんがコツを伝授してくださる。真剣だからこそ返事に力がこもり、突然雰囲気は部活動のようになってしまった。こういう時も気楽に楽しめる人が心底うらやましい。経験則でいろんな知識をシェアしてくれる釣り人さんは本当に物知りで、彼の息子である小さなお弟子さんもスマホ片手に得意げな口ぶりで教えてくださった。

しばらくそのルールを守っていると先端がピクピクっと触れた。魚が餌にかかった証拠だ。懐かしいその揺れに浸りつつも巻いていくとサッパという小さな魚が1匹ピチピチしていた。釣りの楽しい瞬間はやっぱりこの時だ、素直にうれしい。釣り人さんはわたしに一言断りを入れ、ボックスに収めた。家に持って帰って美味しくいただくのだそうだ。本当に釣りのうまい人はどんな魚でもいただくんだなという感想が印象的だった。

魚を釣りやすい時間というものがあるのだそうで、それは潮が引いたタイミングから満るまで。潮の流れが魚に影響するんだそうだ。海は好きだけど、そこに住んでいるものたちには興味がなかったなと他人事のように思う。

太陽もいつの間にかビルに隠れ、マンションの部屋の明かりが明るく灯り始めたころ、海を漂うカイロを見つけた。誰かがこの近くで捨てたのか、道で落としたカイロが用水路に落ちて長い長い川の旅を経てそこへたどり着いたのか分からないがその様子を見ていたらなんだかすごく悲しくなった。仲間もおらず、むしろ天敵である水の中で一人なすすべもなく波に揺蕩っている。その姿をいつかの自分と重ねてしまったのだ。一緒に揺蕩うカイロがもう1枚あったら何かが変わっていたのだろうか。真相は闇の中、やっぱり秋は感傷が過ぎる季節だ。

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