「インフルエンサー」の末路

今更ながらはんつ遠藤氏のブログを読んだのだが、中々きつかった。ラーメン店の店主にセクハラをした挙句、その点についてはまともに謝罪せず、内輪にはおべっかを使い下ネタを絡めながら寒々しい長文を垂れ流した軽薄さは、SNS上で大いに擦られているところである。ただ、私はそれだけが炎上の原因ではないような気がしている。なぜなら、個人への批判を超えて、「ラーメン評論家」というカテゴリ自体が苛烈な批判に晒されているからだ。ラーメン評論界隈には批判を招きすい構造的要因があるように思うのだ。

ラーメン評論家は昭和後期から平成初期にかけて、ラーメン界隈でかなりの発言力を有していた。SNSが普及していなかった当時、友人だけが見るようなブログを運用する者はいても、広く世間一般に訴求する媒体を持つ者はごく少数だった。一方で、ラーメン評論家は雑誌やテレビといった媒体にコネクションを有していた。名前が知れている者はその名義でブログを更新すれば多くの閲覧者を得ることができた。ラーメン評論家は作る側・食べる側双方の界隈において、ある種のインフルエンサーだったといえる。

ところが、時代が進みSNSが普及すると、ラーメン評論家は発信力を独占できなくなり、相対的に影響力を失っていった。一連の騒動を見ると、どうやら一部の評論家達は、昔ほどの影響力を失ったことに無自覚、あるいは自覚していてもそれを行動に反映できていないようだ。

同時に、「店主と並んでラーメン評論家がラーメン界を盛り上げた」といったように、自分達の役割を美化する傾向もみられる。確かにラーメン評論家が影響力を有していたことは事実だが、影響力に物を言わせて傍若無人に振る舞い、界隈にマイナスの影響を与えていた者が相当数存在したことは、奇しくも今回の騒動で明らかとなってしまった。

また、はんつ遠藤氏のセクハラ行為に対して、ニュートラルな振りをして仲間を庇うような書き込みをしているラーメン評論家が目立つ。こうした自浄作用の無さは、ラーメン評論家界隈が影響力を失い相対化される中でより際立つようになった。

このように、影響力の低下に合わせた行動をとることができず、過去の権威的な振る舞いを正当化し、それを仲間内で肯定し合う「かつてのインフルエンサー」の姿に、多くの人は滑稽さを覚え、嗜虐心を掻き立てられたのだろう。

そして、おそらく歴史は繰り返す。近年インフルエンサーの裾野が広がったことで、深夜のコンビニ前でバカ騒ぎしてしまうような「影響力を持っただけの素人」が芸能人に近い地位を得つつある。彼ら/彼女らが老いて影響力を失ったとき、はんつ遠藤氏と同じ末路を辿るように思えてならない。ラーメン評論家は色々な意味でインフルエンサーの先駆者なのかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?