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何のために学校に行くの?

ふたつの意味

たぶん、日本のほとんど全ての人が、どうして学校に行かないといけないのか、と疑問に思ったことがあるだろう。
楽しくないことがいっぱいあるし、朝起きるのは面倒だし、毎日日曜日ならいいのに、と。

学校は、『出る杭は打たれる』を地で行くような側面があって、目立つ人を批判したり排除したりすることがある。工場で働かせやすい人間、命令に従い同じことを同じように繰り返せる人間を育てるため、とも言われているけれど、それは学校側、大人側の視点。

学ぶ側にとっての意義は大きくふたつある。
ひとつは基礎学力、もうひとつは他人との違いを知ることである。

基礎学力

例えば無人島でなるべく長い間サバイバルするようにと言われて一人放り出されたとする。
Aさんは何も持たず無人島に放置され、Bさんは、小さなナイフやペットボトルに入った水、ロープなんかが入った『スターターキット』を渡され、Aさんとは別の島に放置された場合。
どちらがよりサバイバルしやすいかについては言うまでもない。小さなナイフでは家を建てるような大がかりな工事はできないけれども料理やちょっとした工作はできるだろうし、ペットボトル入りの水もすぐに尽きるだろうけど少なくとも今日一日の水を心配しなくて済むだろう。それぞれの効果は小さいかもしれないが、あるとないとでは大違いである。

学校で学ぶのは、この『スターターキット』を得るためである。ある程度の読み書きや計算ができることと、全く知らずに社会人になるのとではその後の苦労が大きく異なる。

例えば最近の電化製品には、様々な言語で書かれた説明書が入っている。世界中に売るために、国ごとに別々の説明書を作るのではなくて、各国語で書かれた説明書を一種類作る方が簡単だからである。製品によっては日本語がない場合もあるが、このとき英語を見るとやはりほっとする。学校の授業だけでは流暢に話せるようなレベルにはならないが、それでもやはり、英語の授業を受けていたことで「とっかかり」になるのである。

反論とその反論

「確かに基礎的な読み書き計算は要るだろうけど、それ以外の数学の『行列』とか、物理の『運動方程式』なんかは使わないじゃん」という反論もよく聞く。

これに対するよくある反論はだいたいこんな感じ。
『あなたが使っている○○も数学や物理の知識を使って作られている』
『数学を学ぶことで論理的思考や問題解決能力を身につけることができる』

こういう反論に対してのよく見る再々反論はこんな感じ。
『確かに身近なスマホや工業製品には数学の知識が使われていて、それがないと不便だけれども、それは数学が得意な人や、○○を作る人だけが学べばいいんじゃない?』
『論理的思考は数学以外でも学べるのでは?』

こうして多くの数学が苦手な人は、モヤモヤした気持ちとともに、なんとなく学生の間をやり過ごしていく。
これらの議論に共通しているのは『役立つかどうか』で判断していることである。
学ぶべき派は役立つから学ぶべきだと言い、学ぶ必要がわからない派は役立つ見込みがないから学ばなくていいのではないか、と言う。

しかし、その前提が間違っている。

役に立つもの、立たないもの

役に立つ見込みがないのに学ばされるのは、先ほどの無人島の例で言えば、ガラクタを与えられるようなものである。空き缶とか、壊れたラジオとか、穴の空いたサッカーゴールとか、どう見ても使えないようなガラクタ、もっと言えばゴミを受け取るような気持ち。役に立つナイフとかロープとかは欲しいけど、ガラクタは要らないよ、と。

けれどもこうしたガラクタは、すぐには役に立たないように見えても、もしかしたら将来的に役に立つかもしれないガラクタなのである。
穴の空いたサッカーゴールは葉っぱで覆えば家になるかもしれないし、壊れたラジオの中にあるハリガネで工作ができるかもしれない。

もちろん、一生使わないガラクタもあるだろう。しかし、それが全く役に立たなかった、とわかるのは死ぬときであって、それまでは何かの役に立つ可能性が残されている。

ガラクタを持っていることは、発想の幅を広げることにつながる。
トイレットペーパーの芯自体は役に立たないかもしれないが、それを見て滑車や車輪を作ればいいのではないか、と気付くきっかけになるかもしれない。
数学や歴史など、役に立たないように見えるものも、今は役立たないように見えるだけで、いつかお宝に代わる可能性のある知識である。
そしてこの「役に立つか立たないかわからない知識」を学ばせてもらえるのは学生の特権である。大人になると「確実に役に立つもの」しか学ばせてもらえないからだ。
大人がガラクタを得るためには、自分でお金を出して、趣味として学ぶしかない。「仕事とは全然関係ないけど数学を学びたいのでお金とお休みをください」と言ったって会社はイエスと言わないのである。

引き続き無人島で例えると、大人は確実に役に立つ釣り竿しか与えられない。
もしその人がガラクタを持っていたら、穴の空いたサッカーゴールのネットを投網に作り替えれば効率よく魚を捕れるんじゃないかと思いつけるかもしれないし、投網は海だけじゃなく陸の動物を捕まえる罠にも応用できるかも? と発想が広がっていくかもしれない。
思いつけるかどうかは確実ではない。しかし、釣り竿しか持っていない人は、釣り竿以外で魚を捕ろうとは思わないだろう。

絵を描くのが好きで上手になって、イラストレーターとして働いていこうと思ったとき、契約や税金の知識も必要になってくる。契約の知識がないと不利な条件で働かされるかもしれないし、税金の知識がないと多めに税金を払わないといけなくなるかもしれない。契約や税金について知るにはまず文章が読めないといけないから「国語」の力が必要だし、契約や税金がどういう意味を持っているかは「社会」の知識が必要である。
「わたしは絵を描くのが好きだから、わたしにとって国語や社会はガラクタ」だと思っていたのにそれらの知識があなたを支えることになるのである。

この知識は確実に将来的に役に立つ、とわかっていてもだからといってやる気が出てくるわけではない。まして、役に立つかわからないもの、ガラクタはますますつまらない、と思うかもしれない。

けれどもガラクタこそ、将来的におもしろいことにつながることが多い。
例えばゲームや漫画には、過去の偉人(や、その転生した人)が出てくるものがあるけれど、この人達については歴史について知っておいた方が確実に面白さは増える。「義経」のキャラが「不意打ち」の能力を持っていたら、「鵯越由来ね」とわかっておもしろい、という感じに。
知っているのと知らないのとでは、全然物の見方が変わってくる。知っている方がおもしろいことが多い。旅行に行ったとき、映画を見たとき、ゲームをしたとき、お店の看板を見たときなどなど、ほとんどいつでも何でも、見たものに対するおもしろさのレベルが上がってくる。

原作を読んでからアニメを見るようなものである。原作を知っているから細かい解釈もわかるし、アニメでは省略されたけど原作で知っているからより深くキャラの心情を理解できる、みたいな。
社会や国語のみならず、物理とか生物についても同じ。花を見て短歌を思い出し、生物と古文と地理の知識でロマンを感じる、みたいな。
世界を測るための道具を得るようなもの。同じものを見てもたくさんの方向から見た方が色々わかっておもしろい。たくさんの方向、こっちからこんな風に見る、という見方を知ること。
ガラクタだと思っていたよくわからない機械がこの場面で役に立つなんて! と思う日がきっと来る。

「あの知識、役に立つんじゃん、学生の時ちゃんと勉強しておけば良かった」と思っている大人がたくさんいることは、「大人 学び直し」あたりで検索して出てくる書籍の多さからよくわかるだろう。
また、こうしたガラクタは「教養」と言い換えても良い。「教養としての○○」というタイトルの書籍の多さもまた、お金を出してガラクタを集めたい人の多さをよく知ることができる。

今は役に立つか立たないかはわからないもの。しかし知っていると世界がおもしろく、様々な思考の役に立つかもしれないもの。それがここでいうガラクタ。学校でそのかけらをもらえるもの。スターターキット。

他人との違いを知ること

ところであなたは『72匹のブタゲーム』が得意だろうか? 遊んだことがないから得意かどうかはわからない、と答える人がほとんどだろう。そのとおり、得意かどうかはやってみないとわからない。

学校では基礎学力の他に、いわゆる「お勉強」とは直接関係なさそうなものにも触れるようになっている。例えば副教科。音楽、図画工作、書道、技術家庭科、保健体育。他にも一年を通じてあるわけではないけれど、成績表を付けない「体験」もたくさんある。社会見学とかね。

これらは、あなたがそれに対して好きか嫌いか、得意か苦手かを試させてくれている。
ダンス、プログラミング、日本の伝統芸能、各種社会見学、修学旅行、林間学校、遠足、カルタやけん玉などの伝統遊び、地域について知る、などなど。
一回やってみれば、なんとなく好きか嫌いか、得意か不得意かがわかる。思ったよりプログラミングが楽しかった、とか、修学旅行先でしたそば打ち体験が楽しかった、そういえば家庭科の調理実習も好きだし料理を作るのが好きなのかもしれない、とか。

「お勉強」とは直接関係ないことを時間を割いているのはそういう理由である。あなたの好きなこと、あなたがしっくりくる表現方法を発見する機会を用意してくれている。

でも学校に行かなくても色々な体験はできる、って?
そのとおり、保護者の方がその気になれば、学校以上に色々な体験をさせてもらうことはできる。
けれども学校に行かずに知りがたいのは、得意か不得意か、である。自分がどの程度できるのかについては他の人と比べてみないとわからない。将棋を得意だと思っていたけど学校の将棋大会ではぱっとしない成績だった、とか、反対に、苦手だと思っていたマラソンが学年上位レベルだったとか。学校だと、この比較がしやすい。同じ年齢、元々興味がある人ない人混ざって横並びにやらされるから比較しやすい。

気を付けないといけないことは、例えば小学校くらいで苦手=才能がない、というわけではないということ。
先生の教え方との相性もあるし、家庭環境や、運動だと身体の成長度合いが影響する。先生が、この子は才能がある、と思い込むことで実際に成績が伸びるピグマリオン効果のこともあるし、慎重にならないといけない部分ではある(ただしピグマリオン効果には再現性が怪しまれている部分もあるとかなんとか)。

けれども負ける悔しさ、勝つ喜びを含め、大雑把な得意不得意を早めに知っておくことは、いずれ「役に立つ」ことだろう。

(なお『72匹のブタゲーム』は架空のゲームである)

学校の駄目な部分

学校には駄目な部分もたくさんある。ひどい先生もいるしいじめを隠そうとする学校もあるし、そもそもいじめが起こるしPTAとか理不尽なルールだとかしょうもない伝統だとかもいっぱいある。
学校はすばらしいところしかない、なんてことを主張するつもりは全くない。

どうしても行きたくない場合

それでもやはり、行きたくないものは行きたくない。そして、どうしても行きたくなければ行かなくてもいいと思っている。
しかしその場合、ふたつのことをすべきだと思う。

ひとつは行きたくない理由を細かく考えてみること。
とにかく行きたくないと言われたって、保護者の人も困ってしまう。病気や性格、性質、先生やクラスメイトとの人間関係など、学校に行きたくない理由も人によって様々あるはず。朝起きるのが辛い、あの授業が苦手、あの先生が嫌、いじめられている、教室にじっと座っているのが嫌等々。
細かい理由を探ってみて、解決できないかを考えてみる。教室自体が苦手というなら保健室登校をする、とか。

もうひとつは、上で述べた基礎学力を学ぶことである。
病気などで行きたいけど行けない場合や、どうしても学校に行きたくない場合でも、広い意味での勉強はした方がいい。スターターキットとガラクタを手に入れるためである。

つまらない学校生活へのアドバイス

つまらないものはやっぱりつまらない。苦手なものは急に得意にはならないことがほとんど。そんな中でお勧めするのは「記録を付けること」である。
学校で経験するあらゆるものについて、おもしろかったかつまらなかったか、得意だったか苦手だったかを記録していくこと。
ジャンルはある程度細かい方がいい。体育が苦手だと思っていても、マット運動と水泳は得意だし好きかもしれない。数学なら各分野。二次関数や数列は好き、集合は大嫌いで苦手、などなど。
もちろん日常的な国数英以外についても書いていく。音楽や美術などの副教科。合唱祭や社会見学、伝統芸能の鑑賞に修学旅行などの学校行事。人間関係。異性との会話。制服、電車通学。
新しいジャンルに出会うタイミングで時々記録するだけで良いと思う。

各ジャンルについて、好き嫌いと、得意不得意を記録していくこと。これを「好き嫌いメモ」と呼ぶことにする。

好き嫌いメモを付けていて、何になるの?
たぶん高校二年生くらい、早ければ一年生の終わりくらいには先生の誰かが「進路」という単語を言うだろう。まだ高校受験が終わって一年しか経ってないのに。そして月日が過ぎればやがて、卒業後にどうしたいのかを周りに示すタイミングがやってくる。大学に行くのか、行くならどの学科か。働くのか、どんな仕事で働くのか。夢は何か。将来の目標は?
そこですぐ「こうしたいです」と言えるならよし。すばらしい。でももしすぐには言えなかったら、その時初めてずっと付けてきた「好き嫌いメモ」が役に立つ可能性がある。自分は何が好きなのか、何が得意なのか。好きなものだけを組み合わせたら何ができるだろうか?

好き嫌いメモは、役に立つかもしれないし、立たないかもしれない。付け始めたタイミングでは、ガラクタにしか見えないかもしれない。でも役に立つ可能性のあるガラクタである。
学校がおもしろい人はもちろん、つまらないと思っている人は好き嫌いメモを付けてみよう。役に立ったらラッキーくらいの軽い気持ちで、ぜひ。

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