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【追悼】私にとっての民主主義の学校は下川町であり、校長は安斎さんでした

前下川町長の安斎保さんがお亡くなりになりました。「地方自治は民主主義の学校である」という言葉を間に受け下川町に入学した私にとって、最も長く教えを受けた校長でした。

若気の至りで全力でぶつかっていった私を真正面から受け止め、時には全力で跳ね返してくれた……もうあぁいう熱のあるやり取りができないと思うと淋しい……。

短腹(北海道弁で「短気」の意)な性格で直に話している時はかっとなり否定されることも多かったのですが、実はしっかり受け止めてくれていて後で反映してくれることもありました。

次々と蘇ってくる思い出を今のうちに書き留めておこうと思います。

私の社会人生活は1999年4月に下川町役場からスタートし、ちょうどそのタイミングで下川町長選がありました。その時も町を二分するような激戦で(私は当時下川町での選挙権がなかったので幸か不幸か蚊帳の外でしたが)、その選挙をくぐった安斎さんが原田さんからバトンを受け取りました。以降4期16年に渡り町政の舵取り役を務めることになります。

実は、役場に入る時の面接試験で、当時の原田町長から「あなたのように国立の大学院まで出た人間は官僚になって国のために働くのが本来じゃないか」と言われ、落とされるのではないか心配したのですが、当時助役だった安斎さんが選挙に向けて退職する時に「あいつは残しておけよ」と伝言したんだと、ずいぶん経ってご本人からお聞きしました。

そんな安斎さんの元での4年目が終わりに近づいた頃、私は別な立場で自治に関わろうと町会議員に立候補すべく辞表を出しました。ところが、安斎町長が思いの外私のことを評価していてくれて、直々に引き止めてくださり、町長特命事項を扱う森林活用係というポジション創設に至ります。

私一人の小さな係でしたが、私の起案文書の決裁は町長が直に行うという異例の扱いで、森林が二酸化炭素を吸収・固定する機能を経済的に評価して自主財源確保につなげることや森を健康づくりに役立てる森林療法、そして別な方が主担当だった木質バイオマスエネルギーについても専門家との繋ぎ役をやるなど、森林を活用して地域の内発的発展・持続可能な発展につながりそうなことについて片っ端から調査して政策化を目指しました。

ある時、安斎町長に「歴史に名を残す町長になりましょう」と大胆な政策提案をしたのですが、その時は「いや俺なんかパチンコ好きの田舎のおやじでいいんだ」と謙遜されて堅実な道を選ばれました。しかし、その後下川町は環境モデル都市に選定されるなど評価を高め続け、持続可能な社会の日本におけるモデルとして全国区に。歴史に名を刻む町長となったのです。

私はと言えば、2年間の特命事項ポジションを経て結局役場を退職し、2005年にNPO法人森の生活を設立することになります。その時もしきりと「痛ましい(北海道弁で『もったいない』『惜しい』の意)」と言って引き止めてくださりました。退職後も気にかけていただき、私が役場外部の人間として提案する様々な事業に対しても理解を示してくださり、NPO法人森の生活などでも実績を積み重ねていくことができました。

ちなみにサンルダムに対して意見が合致することはありませんでしたが、だからと言って冷遇されるようなことはなく、むしろ重用していただいたのは前述のとおりです。

次に転機が訪れたのは2011年。私が下川町議会議員になったことにより、議場という公開の場で言葉を交わし合うことに。

親と子ほど離れた歳の差のギャップ、下川町という山村部と名古屋市という都市部、生まれ育った場所のギャップ、それらをひっくるめた価値観のギャップから生じる意見の対立が目立つようになりました。でも終わった後は「いい議論ができたな」とわだかまりを残さない方でした。

結果的に、5期目を目指そうとする安斎さんに対し引導を渡すような一般質問をすることになってしまいましたが、常に真正面から私と向き合ってくれた、そして地域のことを第一に考えていた安斎さんへ、私なりに誠実に向き合った結果なので後悔はしていません。

安斎さんが町政を退いて8年。統一地方選のこのタイミングで安斎さんの話を聞きたいと思っていたのですが……それだけが心残りです。ご冥福を心からお祈りします。


バーカウンターで「あちらのお客様からです」ってあこがれます。