猫も杓子もニートも


社会人には社会人の文脈があるように、
アメリカ人にはアメリカ人の文脈があるように、
ピダハンにはピダハンの文脈があるように、
猫には猫の文脈があるように、
ニートにはニートの文脈というものがある。

文脈というのは一つの閉じた小世界だ。
そこにはルールのようなものがあり、個々で独立しながらも通底する共通言語のようなものがあり、流れのようなものがある。
普通に生活していると、人はせいぜい2、3の文脈しか通過しない。
家族、友人(学校)、会社くらいのものだろう。
取り分け求めるものが無いのであれば、それ以上の文脈を知ることは実はそんなに大事なことではない。

でも、もし自分の中に満たされない何か、あるいは抗いがたい外側への好奇心があるのなら、私は未知の文脈に橋を架けることをお薦めする。
もちろんそこで取り返しのつかない量の毒を飲むことになるかもしれないし、運よく万能薬を見つけることになるかもしれないし、何も起こらずにただ通過するだけで終わってしまうかもしれない。

しかし全部が終わった時そこにいるのは以前の貴方ではない。
言葉や価値観で人は死なないから、散歩するような気持で他者という文脈に飛び込むといい。


そんなわけで、ニーマガvol.2が無事に刊行された。
vol.1も大概だったとは思うけれど、今回も捻じ曲がり過ぎてむしろ真っすぐに見えるニート(あるいはニートマインドを持つ者)たちが特濃の記事を寄稿(任意での投稿なのでこの表現は適切ではないかもしれない)している。
割とみんな好き放題やっているのに、やっぱりどこかで似たようなエッセンスを共有しているのが面白い。

前回の刊行から約半年、ニートにあるまじきTNPで世に出たニーマガvol.2。
すぐにでも読破してTwitterなりSNSなりに「#ニーマガ」で感想を書いてほしいところではあるけれど、個人的には一番の功労者であるゆるふわ無職さんのセルフインタビューに目を通して欲しい。自己批判的でさえある徹底したメタ視点と彼の個人的な哲学は、もはやゆるふわどころではない。


以下は個人的な反省。
読み飛ばしても構わない。

ニーマガの初期メンバーでありながら、私は記事の提出を一度も行っていない。
もちろんニーマガは書くことを強要しないのでそれで責め立てられるということも無いのだけれど、誘ってもらえた以上は「いるだけの人」でいるのもどうか、という思いがある。
納得のいく完成度のものが書き上がらなかったことや、自分の文章に対してやや自信喪失気味になっていたのが主な理由ではあるのだけれど、刊行されたニーマガを読むとやっぱり「ここに自分の名前を載せてみんなと肩を並べたいな」みたいな気持ちになる。

これまでの日記を厳選して本にしてはどうか、という提案をしてくれたニー友がいた。紙になった自分の文章を読んでみたいといってくれる人がいるのがとても嬉しかった。
日記だけならnoteでも読めてしまうから、短編小説を何本か書き下ろしてくっつけて本にするのも良さそうだなぁ、なんて考えている。

まぁとにかくいろいろやってみよう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?