最近

最近ようやくあぁあの人はもう帰ってこないんだなという事を受け入れた。
これは結果論だし、今も生きてたら、なんて考えてもしょうがないけど、ただ生きててくれてたらそれでよかったのになぁと今でも思う。
私じゃ生きていく理由になれなかったんだな。
もしかしたら私が苦しめていたのかな。
楽になれたかな。
何にも教えてくれないまま行ってしまった。
残された側はずっとこういう事を考えて生きていくんだと思う。当然だと思う。考える事は生きている人間の特権だ。
特に最近はこういう事をずっと考えている。

人ってめちゃめちゃ簡単に死ぬ。
死んでしまうというか、簡単にそれを選択する事が出来る。
大切な人がいようが、楽しいことがあろうがそれを選択する。
何故ならかつての私がそうだったので。
どれだけ大切なものを抱えていても、未来への希望があっても、失う辛さをわかっていても、それでも希死念慮は付き纏っていた。
何がきっかけか、寝不足からの思考力判断力の低下か、ろくにご飯なんか食べてなかったのに、そうだ死のうと思いたった瞬間力がみなぎって、薬(数は伏せるね)とお酒を飲んだ後橋から飛び降りようとして人に止められた。
いや止めてくれた、止めてくれたと思えるようになって本当によかったなと思う。
多分救急車に乗っていた。
人間は聴覚が最後に残ると言うけれど、アレは本当だ。
朦朧とする意識の中誰かの話し声とお姉ちゃんが手を握ってくれた感覚だけ覚えている。
この人私が死んだら泣くんだ、と思った。
母親にアンタがいなきゃ嫌だよと大泣きされた。
母が泣いてるのを見たのは3回目だった。
飼い猫が虹の橋を渡った時、あの人が亡くなった時、今。
未だに橋の上に立った時の光景が浮かぶ、足元がすくむ、生きてるな~と思う、安心する。

大切な人にただ生きてて欲しいと願う私も、自分の人生を終わらせたいと思う私もまとめて全部私一人だ。
このふたつの思想は全然普通に共存している。
後者は前より思わなくなったけど、ゼロではない。
どれだけ大切なものを抱えていても、未来への希望があっても、失う辛さをわかっていても、何がきっかけかわからないままふらっといなくなるのが人間だと思っている。
少なくとも私はそうだ。
自分がこう思ってしまうからこそ、私の大切な人がいなくなったら、そういう事を考える。
人ってめちゃめちゃ簡単に死ぬ。
死んでしまうというか、簡単にそれを選択する事が出来る。
めちゃくちゃ怖い、もう誰にもいなくならないで欲しいのに、私じゃ生きていく理由にならない。
だから今日も生きてることに感謝して、明日も幸せでありますようにと願うしか出来ない。
お前ら死ぬなよ、本当に。
死んでもいいけど私が死んでからにして。
なんてめちゃくちゃ無責任だと思う、ごめん。
それでもただ生きてくれてるだけでいいのになぁと、本気で思うよ。

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