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肺癌ステージ1b

母の病がわかった。9月11日午前の事であった。なぜか書き損じていた。時間をかけて、ようやく脳が処理できたのだろう。その日、新潟市にある癌専専門病院へ、私、父、母の三人で結果を聞きにいった。

結果は、やはり肺癌。

しかし幸いなことに早期発見で、ステージⅠb、右肺の上部に、高さ2㎝×横3㎝ほどの、決して小さくはない、悪性腫瘍が見つかった。医者は、PET検査で得られた全身画像を、私たちに見せながら、慣れた口調で話す。手術が必要なこと、早期であって、他に転移は確認されないということ、しかし大きいものなので、迅速に手術へと段取りを進めること。小さい悪性腫瘍が大きな癌細胞のそばにもう一つあること。母は、食い入るように先生の目を見てその話を聞いていたし、私たちも、大きく頷きながら結果の一字一句を聞き漏らさぬように息を飲んで聞いていた。「次は手術の説明を受けて欲しいので、外科に回ってください。」そういわれて私たち三人は、内科のその部屋をでた。父は、深々と、長く、お辞儀をした。

9月11日という日を、私たち家族は毎日胸の避ける思いで待っていた。もしも、の事も沢山考えた。でも母の前では明るく振る舞い、決して弱音は吐かないとそれぞれに誓い。当日の待合で呼ばれるのを待つあの時間、まるで、神様かなにかに選別されるような気持ちだった。私はあまりにも落ち着かなくて、院内の壁に無数に飾られていた絵画を眺めながら歩いたりして、気をそらしたり、落ち着かせたりしていた。こんなときなのに、どの絵画も美しく感じて、こんな絵を母にプレゼントできたらいいな、などと考えていた。

呼ばれて、結果を告げられ、形のなかった奇妙で恐ろしい不安が判明して、何はともあれ、我々は次への一歩が示されたことに対してはとても胸を撫で下ろした。終わりや形のない不安ほど、厄介なものはない。肺癌ではあるが、手術できるだけよかったね、早期でよかったね、転移してなくてよかったね、と、沢山の幸いが提示されて私たちはひとまず喜びを噛み締めた。本で読んだのだが、現在平均で様々なステージ1の癌での5年生存率は8割り前後と高い水位を示しているそうで、私はその10人に2人という方に母が該当しない事をまた心から祈っている。

父は仕事のため一旦家に戻った。私と母の2人で外科に周り、新しい先生と対面した。そこそこ年のいった、メガネをかけた医師であった。無駄な発言がなく、端的で、冷静で、第一印象は安心できそうな方だなと思った。身嗜みは若干砕けていたが、靴なども決して不清潔そうではなかった。その主治医がいうには、母は遺伝性の肺癌の可能性が高いそうだ。私の家系は今まで大腸、胃、などの消化器系の癌で命を落とすケースが多いと聞かされていたが、肺は初めて聞いた。私の父が重度のヘビースモーカーで、私も母も伏流的に喫煙していたし、うちは父が個人経営で塗装屋を営み、その塗料の化学物質などで時折発癌するという事例もあるの出そうだが、母の肺癌に至っては、それらの外的要因では考えられない細胞の位置であるとう。しかし医者は「でもお父さんにはこの際にタバコをやめてもらって、お母さんが肺癌になったのはお父さんのタバコのせいですよ、なんて話ぜばきっとやめざるを得なくなりましょう。」と、ユーモアを含んで皮肉った。私と母はやっとそこで少し笑えた。

それからまた、三つほど検査を周り、術前の呼吸トレーニンング法を教えてもらって、帰宅した。夜、我が家と姉夫婦も読んで家の近くにある中華料理店へいき、みんなで会食をした。(ソーシャルディスタンスで)みな、口を揃えて、早期である事を嬉しいと言葉にした。姉も今回ばかりは相当心配だったらしく、姉の知らない意外な一面を見ることができた。

私なんて、補助輪くらいにしか慣れないかもしれないけど、少しくらいやくに立てるなら、なんだってしたい。

10月5日、母の手術日だ。私は家族を代表して待機室で待つことになっている。またその時になったら、心境を綴ろうと思う。

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