【対談】「古典・新作組踊の中の女性像―組踊とは何かー」:大城立裕&与那覇晶子



「古典・新作組踊の中の女性像―組踊とは何かー」大城立裕氏と与那覇晶子の対談  2007年11月24日 (10時45分から正午まで)沖縄県男女参画センター・てぃるるにて【注1】

与那覇:与那覇です。今日は「演劇の中の女性の表象」のテーマで沖縄文化を代表する大城先生をお迎えできて本当に光栄に思っております。最近先生は、新作組踊十番『花の幻』(カモミール社、2007年)を出版されています。10月に出版記念会もありました。受付の方に何冊か置いてありますのでぜひ購入していただきたいと思います。

さて今から古典と新作組踊の中の女性たちについて先生にお話をうかがっていきますが、私の方も急いで「古典・新作組踊の中の女性像」について原稿用紙30枚ほどパンフの方にまとめてきました。そちらも後で参照なさってください。またご批判なりをうかがいながら稿を改めたいと考えております。

さっそくですが、1719年、冊封使の前で初めて玉城朝薫の「二童敵討」と「執心鐘入」が首里王府の特設舞台で上演されているのですが、その後に朝薫の他の作品「銘苅子」「女物狂」「孝行の巻」も次々と舞台に登場します。その組踊五番はものすごく評価が高くて普遍的なものだとよく言われているのですが、まずその朝薫の五番の女性たちについて大城先生のご見解をおうかがいしたいと思います。よろしくお願いします。

大城:玉城朝薫が組踊を書いたいきさつですが、琉球王府に踊奉行というのがありまして、踊奉行と言うのは首里王府のいわば、芸能大臣ですが、朝薫の前からあったのですが、何をするかといいますと、先代の王様の法事を司る。新しい王様のお祝いをするより法事の方が主だったんです。尚敬王の場合にも従来の演劇はあったんです。演劇というのはもともと神事芸能なんですけれども、非常に単純素朴な芝居のようなものがあったのですが、尚敬王が言いつけたというのは琉球の昔からある故事伝承を元に新しい演劇を作ったらどうかと頼んだというのですが、17歳の尚敬王がそこまで先見の明を持って朝薫に申しつけたかどうか、疑っています。本当の所は、朝薫はもともと若い頃から江戸芸能など見ているのです。それをまねてといいますか、新しいものを作ってみたいなーとつまり物語のある演劇を作ってみたいという考えをもって王様に進言したのではないかと私は想像しています。まぁそういう切っ掛けはどうであれ、朝薫がまず作ったのは、道成寺物語を参考にして作ったと言われる「執心鐘入」、それから沖縄の昔歴史物語にある所の阿(あ)麻和(まわ)利(り)をモデルにした「二童敵討」。阿麻和利という名前がちゃんと劇の中に出てきますからモデルというわけではないのですけれども、でも阿麻和利に対して敵討をしたというのは全くのフィクションですが、そういう二つを作ったというのです。その後に「銘苅子」「女物狂」「孝行の巻」と五本作ったんですが、今日までこれが滅びずに伝えられてきている。また「執心鐘入」などはですね、あんな難しいものが今もって脈々と受け継がれて子供たちもそれをまねてやるという風になっていることは、まことに驚異的なことでありまして実はその朝薫の後に、朝薫は18世紀はじめですが、その後にも今日発掘されているのは67本あるわけだけれどもそれの大部分が仇討物、つまりチャンバラ物なんですが、今日では、それはもう古典あるいは昔作られたという以上の価値はそれほどないと思うんですが、朝薫の物だけがチャンバラはなくて母のことだとか、女のことだとか、そういう普遍的な人情をテーマにしたという、非常に不思議というか、あの天才ぶりが驚異なんですね。まぁとりあえずその辺でいいでしょうか。

与那覇:その朝薫の五番を見ていますと母と子の情愛というのが、ものすごく強調されているのですが、それはなぜでしょうか。

大城:朝薫自身が12歳の時にお母さんと生き別れしているんですよ。でまぁお母さんは再婚しているんですが、そういう幼くして母と生き別れているという事がある。大人になってからは一度離婚して、まぁ離婚した最初の奥さんはかなりの身分の娘ですがその女性との離婚の後、非常に身分の低い女性を再婚相手にしているというつまり女に苦労したということがありまして、それが彼の作品のそのモチーフに影を落としていると思いますね。ご承知のように「執心鐘入」では女の執念、この執念というのはどこから持ってきたかわかりませんが、それから「女物狂」では子供が誘拐されたところ、母が狂って子供を捜しに出るという、そして「銘苅子」では、羽衣伝説と同じように羽衣が奇縁になって結ばれた男と別れて自分も天へ戻らなければならないと、天へ戻るのはいいけれど、ここで朝薫が力をこめて書いたのは、子供との別れの場面なんですよね。そのようにですね、非常に母とか女とか子供とかを力をこめて書いたというのが、朝薫が今日まで普遍性を持って伝えられている由縁だろうと思います。

与那覇:そこで「執心鐘入」の宿の女についてまたお話してほしいのですが、昨日先生と打ち合わせをした時に、作者としてのお立場から見ると朝薫は最後の場面から書いたんだと思うとお話されていました。その辺をもう少しお聞きしたいです。

大城:宿の女というのが男好きがするという立場でしょうか。中城若松が稀有の美少年であったことを聞いていた節はありますが、そうかもしれませんが、とにかく初めは顔を見ないうちは名前も聞かないうちは一夜の宿を断ったのに、名前を聞き、顔を見たとたんにほれ込んで、ストーカーを―「あれはストーカーですね」と、幸喜良秀さんが言いましたけど、そのストーカーから逃げるのが話の本筋なんですよね。朝薫がこれを書こうとした時にですね、まず考えたのは、彼は封建国家の中の芸能大臣ですから儒教道徳を外すわけにはいかんのです。だからあの女の思いを遂げさせてはいけないはずなんですよ。これがまず念頭にあったでしょう。しかも国家行事に上演される演劇ですから、その儒教道徳をもろに打ち出さないといけないので、このストーカーの女はいずれは滅びるような形にする。ハッピーエンドとまでは行かないまでも一応はトラブルが片付く形にする。そのためにはどうするか、ということからまず考えたに違いない。またそのためにはお寺に逃げ込んでお寺のその法力の力、仏法の力でこれを退散させるということにするとまず片付くんではないかと-――。それから話しをさかのぼらせたんではないかと思います。それは私の物書きとしての勝手な読みですがね。

与那覇:それはこの間どの文献でも読んだことがないようなやはり作家ゆえのコメントかと思います。ここでまぁ朝薫については終わりにしたいのですが、後は具体的に「執心鐘入」についての新しい説についてはパンフの方にいくつか紹介しております。その後の朝薫以外の組踊なんですが、平敷屋朝敏の「手水の縁」の玉津(たまちー)、あの情熱的な愛の世界ですね。後は「花売りの縁」の忍耐強い士族の母親が出てきますが、また「忠孝婦人」の乙樽というものすごく才知に富んで話術に富んで色香に富んで、こう芸も達者な女性が仇討物の中軸となっていく女性。一方で「雪払い」の同じ乙樽の名前ですが、継母で悪い女性の象徴が出てきますね。

大城:作者の平敷屋朝敏というのは玉城朝薫の弟子だと言われていますが、おそらく非常に天才的な作家根性をもって自分は先生よりいい作品を書きたいと意気込んだんではないかと、私は「花の碑」【注2】という小説にも書きましたが、彼が目ざしたのは「執心鐘入」のように敗れる恋ではなくて、成功する恋を書いてみたいと、命がけで成功する恋を描いてみたいという当時としては非常に破天荒な志なんですよね。当時の儒教倫理に縛られていた時代の作家としては破天荒な志なんですが、それで彼が描いたのは玉津という女性、つまり恋のために父を裏切る。その結果は当時の社会のリアリズムなんですが、父を裏切って好きな男と添い遂げたいという娘にたいし、父は打ち首を企てて、志喜屋の大屋子(うふやく)、山口の西掟(にしんち)という手下の侍にこれを打ち首させようとする。この打ち首に玉津は従おうとするんですが、この志喜屋の大屋子、山口の西掟という父の家来の侍、これが、実は血も涙もある侍になっておりまして、この辺が沖縄的というか、徹底的にドラスティックになれないのですね。打ち首の役目を言いつけられたのは確かだけれども、その娘さんかわいそうだという風なところも出てくるんですね。そして山戸という恋人が助けに来たら許してやって逃がしてやる。逃がしてやらないとハッピーエンドにならないのでしょうね。ハッピーエンドにしたところが、当時は上部層のタブーに触れて上演禁止になったという言い伝えもあるんですが、これも結末のところから先に考えたと思います。そうすると見ず知らずの男と、当時は縁談は全部親が決めたんですね。自由恋愛のきっかけを作るのに、手水、手で水を汲んで飲ましてあげるというモチーフを考えたと思います。いずれにせよ、玉津という娘は初々しいですよね。玉城朝薫の宿の女のような毒婦的な激しさはないが初々しい激しさがありますね。この辺など、比べてみたら古典の中の女性像としては比べがいのある材料だと思いますね。

与那覇:他に「花売りの縁」の乙樽と「忠孝婦人」の乙樽がいますね。

大城:「忠孝婦人」つまり「大川敵討」は組踊にしては珍しく長い芝居ですね。2時間くらいかかるのかな。お城が落城して、その自分の主人が仕えている城が落城して、その敵を討つために主人はとりあえず姿をくらましている。それを妻は家族と一緒に主人の村原を探していくうちに再会し、敵に捕らえられている若按司を助けるために、意図的に自らも敵の捕らわれの身になりながら、半ば色仕掛けを使いながらその相手の按司、敵の城主をたぶらかして思いを遂げるということになります。これは実は敵の城主もさることながらその城主の第一の家老の満納の子という智謀の人がいるのですが、城主が色香に迷わされようとすると、満名の子はそれを防ごうとする。その辺のドラマも面白いのですが、乙樽というヒロインはその二人を相手にしながら静かに大活躍をする。変な言い方になりますが、色仕掛け半分で相手を落としいれて主人に敵討ちを遂げさせる。相手の二人と乙樽のやり取りの所が劇のクライマックスで、もともとの題名は「大川敵討」ですが「忠孝婦人」の孝というのは姑さんのお供をしながら苦労して夫を探しにいくのが孝になっているのですが、「忠孝婦人」というサブタイトルもついています。それは一つの理想像でしょうね。まぁシェイクスピアの理想的な女性は誰だったかというと「ベニスの商人」のポーシャであろうかという説がありますが、シェイクスピアの場合今思いついたのですが、「執心鐘入」の宿の女に対するのがマクベス夫人であろうかと思います。忠孝婦人に類するものはポーシャであろうかと、単なる思いつきの冗談半分の比較ですが。

与那覇:確かに理想の女性像としてのポーシャと忠孝婦人の乙樽は、その賢明さと勇敢な点で類似しているかと思いますが、マクベス夫人と宿の女はどうでしょうか。 どころで、組踊の研究者の先生方は戦前も戦後も結構おられるのですが、今日会場にお見えになっている當間一郎さんの他には池宮正治さん、矢野輝雄さん、大城学さんなどがおられます。その中でも特に組踊の女性について論稿を書かれておられるのが芸能史研究会会長の當間一郎さんです。組踊の中に、なぜだか乙樽という女性が何名も出てくるのですがその女性たちの美醜について詳しくまとめられています。その他、パンフの方にも詳しく紹介していますので後で目を通していただきたいと思います。また「忠孝婦人」に関しては、1745年に『遺老説伝』が琉球の史書『球陽』といっしょに編纂されているのですが、その中に按司時代の女性としての忠孝婦人の原像が見られます。もっと時間がありましたら新しい「執心鐘入」の説などもお話したいのですが、これから皆様に新作の組踊をご紹介したいと思います。大城先生は「国立劇場おきなわ」の杮落としのために新作組踊五番を創作されましたが、その中で最初に上演されたのが「真珠(まだま)道(みち)」です。そのDVDを皆様に少しお見せして、その作品に対する先生のお話をおうかがいしたいと思います。真玉橋の人柱伝説を元にした物語です。

【真珠道】梗概【注3】

  倉田真刈は王国の貴族の長男で、青年時代に豊見城間切の役所に勤めるうち、真珠村の娘コマツに一目ぼれして、コマツもその気になり、二人は結婚を約束して、倉田の両親の許可を得るために首里に上った。真珠村から首里へ上る道は真珠道とよばれ、めでたい道筋であった。しかし、身分制度の壁は厚く、コマツは泣く泣くひとり村へ帰る。

何年かすぎて、真珠村にひとつの難題が湧いた。真珠村の前を流れている国場川に、真珠道のための橋を架けようとするのだが、いくら工事をかさねても、流されてしまうのである。村掟(村長)も村の人たちとともに困り果てているところへ、新しい普請奉行が着任する。奉行は倉田真刈であるが、事情を聴き、どうしたらよいかと村掟に相談する。村掟はひとつの進言をする。それは巫女に頼って神の信託を得ようと言うことであった。奉行の許可を得て巫女を呼ぶが、出てきた巫女はコマツであった。コマツは久しぶりに会った真刈に、これまでのことを語り、「結ばれない縁を歎いているうちに巫女になったのだ」と告白した上で、信託として、七色元結をした女を人柱に立てることを、進言する。

村の人たちが勇躍して「七色元結の女」を探すうちに、コマツはみずから七色の元結を締める。村人たちが「女」を探しあぐね、仲間同士を疑ったりして疲れているうちに、村掟がコマツをその「女」だと見つけ出し、人柱は成功する。村の人たちには、どうしてコマツが自分を犠牲にする気になったか理解できなかったが、真刈には分かっていた。彼はコマツの真情を哀れに思いながら、ひとり真珠道を首里へ上っていく。

【DVDは舞台冒頭、コマツが登場し唱え、マカルと踊る場面とコマツがユタになって真刈と再開する場面をスクリーンで紹介】

   与那覇:この「真珠道」の新しさは初めて組踊にユタが登場することです。またお芝居の「真玉橋由来記」【注4】と違う点はコマツが自らの意思で人柱になることですね。

大城:コマツは真刈となれそめて結婚を夢見るのですが、身分が違うので、真刈の親が許さない。それで断念します。コマツは結婚に破れ村に戻ってユタになります。悩みが嵩じてユタになるというのが私の沖縄のユタ観です。当初組踊五つを書こうと思った時、五つの作品をどうそろえようかと考えた時、五つの時代に一つずつ当てはめて書けばいいと思ったわけです。これは近世期に当てはめて書いたものです。真玉橋の人柱伝説があるんですけれども、従来の説が納得できないものですから、なぜ人柱になろうとしたかという事を考えたわけです。なぜコマツが人柱になるのを申し出たかということは、女が男に対する純愛のあまり、普請奉行を勤めている男のために自分の身を捧げて助けたいと思った、という物語にしています。

与那覇:結末は悲劇的ですね。真刈がさびしく真珠道を登っていくという最後の場面は暗いですね。

大城:そうなんですね。この真刈はけしからんという声もあります。身勝手な男はけしからんという女性観客の声もありますけれどもこれはやむをえない。女性を救うことができない時代でございまして、救うことができないときに男はどうするか、何を考えるのか?その辺が、私が「執心鐘入」のようにハッピーエンドは作りえない。それに関して新しさなのか、私の限界なのかよく分かりません。

与那覇:大城先生は琉球の歴史を背景にした小説をたくさん書かれていますね。「花の碑」は18世紀初頭の琉球を描写している小説ですが、同時代の組踊「真殊道」の形式の中には、小説がエキスのようにちりばめられた言葉があり、表現がありますね。「花の碑」を読んだところその背景にやはり400年間に及ぶ琉球の植民地的環境もイメージさせる政治と文化の確執であるとか、そういったシンボリズムが結構こめられていると思います。実際小説の中に朝薫が書いた組踊として「真珠道」が登場していますね。犠牲になるコマツは女ですが、しかしその女は実は愛の勝利者であることも暗示されているかと思います。次に琉球処分の頃をテーマに書かれた「山原(やんばる)船(せん)」を御紹介したいと思います。

 【山原船】梗概

   琉球処分直後の一日、国頭間切安波村から島尻の与那原へ薪を運ぶ船の上が舞台である。船頭にとっては、いつもの仕事には違いないが、今日とりたてて感傷的になるのは、村のカマドという幼い娘が那覇の辻村遊郭に売られていく、その娘と遊郭のアンマー(抱え親)を乗せることになっているからである。―――と思っているうちに、娘とアンマーが乗ってくる。カマドにとっては、村へのいとおしさもあるが、家のために仕方がないと諦めなければならない。アンマーは、いまカマドを慰め励ます役にまわり、船頭に歌でも唱ってくれと頼む。

   船頭が故郷である那覇泊村のハーリー歌を唱っているうちに、海に遭難者が浮かんでいることに気づいて、救けることにする。救けてみたら、琉球処分を嫌って清国へ逃げようとする「脱清人」で、しかも泊村の身分ある人である。彼は救けられたあと、船頭やアンマーと世間話をするうちに甘えて、船をこのまま清国へ走らせてくれと頼む。船頭とアンマーが呆れていると、ヤマト警察に協力する探訪人の船がやってきて、脱清人を捕らえようとする。

   探訪人は三人であるが、脱清人に時代の流れを説いて説得するうちに、船頭がおもわず探訪人一人を薪で叩き殺す。探訪人が驚き詰ると、船頭は開き直り、逮捕するなら、してみろ、と言う。探訪人が逮捕しようとすると、脱清人が詫びて、悪いのは自分だから、自分を縛ってくれと言う。こんどはそのほうを縛ろうとすると、アンマ-が、じつは自分もこの娘をジュリに育てようとする罪人だから、今日のところは、ひとまず与那原までは平和に行かせてくれと頼み、探訪人もその気になる。

   おりしも西のほうに太陽が落ちようとし、東のほうでは月があがろうとする。カマドが皆を誘って、それを拝む。

  【DVDは「山原船」の冒頭、カマドがアンマーと船に乗り込み、村を振り返り唱えている部分を紹介】

与那覇:この「山原船」は2006年6月と12月、それぞれ異なる制作・演出で上演されています。初演は今日この会場にもお見えになっておられる琉球舞踊玉城流玉扇会家元玉城秀子先生とご子息の太田守邦さんがとてもいい舞台を創っておられます。先ほどのDVDの冒頭の場面の辻村のアンマーと船頭の役ですね。幸喜良秀さんの演出です。二度目の舞台は三隅治雄さんの演出で、国立劇場おきなわで上演されています。玉扇会の舞台は来年の春3月、東京の国立劇場で再演することになっています。もし機会がありましたら直にご覧になっていただきたいと思います。

大城:これは、時代考証においてはかなり問題があると指摘されております。ひとつには、ヤンバルまで子供を買いにアンマーが自分で出向くのはおかしい。本当は人買いが行くんだと。それから、山原船は人を運ぶものではなく、薪を運ぶものだと、それから後から出てきます中国へ脱走する者を捕まえようとする人間がでてきますが、それが警察というよりは探訪人として登場します。当時琉球処分官の松田道之が現地の青年たちを使って密偵にしたんですね。その密偵が警察外のことをするのはおかしいという批判はありますけど、その辺はフィクションとして許していただきたいという思いがあります。作者として見ていただきたいのは人情、歴史に翻弄される人々の人情、そしてその人情には辻街遊郭に売られていく子供と、アンマー、それと男たちとのからみを見ていただきたいのが私の狙いです。

与那覇:今スクリーンを見ながら気がついたのですが、朝薫の組踊の場合も母と子で、わりと子供が登場するんですね。先生のこの作品でも子役が生き生きと登場していますね。

大城:そうですね。子役を登場させるのは冒険ですが、子供の学校との関係もありますからね、これはどうしても出さなければならなかった。出してですね、後から気が付いたんですけど、この物語の節目、節目、場面転換は皆この子供が作っているんですね。子供が未来を予見するという神話的な構造を持っていはしまいかと言うことを、手前味噌かとも思いますが書いて後から気が付いたんです。こうすると場面転換がやりやすいとは、作品の技術的な問題なんですが、作品を書いているうちは分かりませんでした。結果としてはそれが面白く働いていると思います。

与那覇:先ほど先生がテキストに関して批判もあるよ、とおっしゃっているんですが、今日会場にお見えになっているキリスト教学院大学教授の大城冝武先生も言及されていまして、私も批評の中で触れていますが、ただ先生は琉球処分についてはすでに小説を書かれていますね。また戯曲「世替りや世替りや」という1988年に紀伊国屋演劇賞特別賞を受賞している作品もありますね。それらも背景にしながらエキスとしてシンボルとしての琉球処分というのを類型化、象徴していると見ると、フィクションとしては非常に面白い組踊だと思います。そこで強調したいのは辻遊郭のアンマーですね。先生の作品の中では、女性が大きな熱いマグマのようにと言いましょうか、あるいは海のように物語を支えているように思えます。しかも強い女たちですね。辻遊郭とジュリに関しては、「花の幻」の作品を含めましてまた後半にお話していただきたいと思います。

続いて第一尚氏最後の尚徳王と久高のノロ・クニカサとのほろびゆく愛の物語を描いた「海の天境」、幸喜良秀演出です。
【海の天境】梗概

 15世紀なかば、青年君主の尚徳王は神威をも準えていて、ある年に神に引かれてニライカナイの霊地を求めて船を出したものの、難破して久高島に流れ着き、クニカサの父と兄に助けられて、クニカサと恋仲になり、島に居ついてしまった。クニカサは島の神女だが、尚徳のために命をかけて尽くす覚悟をしている。首里王府では、金丸という人物が、伊平屋島(のちの伊是名島)から出て、尚泰久王に重用されて出世したが、後継国王の尚徳の振舞に手をやき、しだいに王位簒奪の野望を抱くようになっている。そこで、側近である占い師の安里大親に占わせたところ、島に尚徳が居ついたことを知り、安里を島に遣わして様子を探らせる。安里は島に来てみるが、クニカサの手ごわい抵抗を受け、いずれ男と女とで占いの勝負をすることを約して、一旦は引き揚げる。

 勝負は尚徳の喜界島征伐の戦術談義で行われたが、湾の沖で島の攻めかたについて軍議を詰めたところ、尚徳はクニカサを採用し、安里を斥けた。安里はクニカサに報復するために、久高島を訪れ、神女たちのクニカサにたいする嫉妬をあおり、クニカサを島の民俗伝承である「七つの橋渡り」に誘い出した上で、「国王は死んだぞ」と声で脅しをかけ失敗させ、クニカサを失神させる。「男」が「女」に勝ったのである。折から首里では金丸が尚徳の命を取った、との情報が久高島にも伝わり、島人たちが驚き、噂は島を走る。神女たちも真実に目覚めて安里を追い払う。尚徳は亡霊となって、クニカサを甦らそうとするが・・・・・。

【DVDは尚徳がクニカサや安里を伴って船で喜界島を征伐する場面と久高島の神女たちがクニカサを七つ橋渡りの掟で裁く場面】

与那覇:中央が尚徳王ですね。両サイドがクニカサと安里で、喜界島を侵略する戦の場面です。この演出は現代劇かと思えるほどにスペクタクルで見せました。現代タッチのダンスも取り入れていました。ものすごいスペクタクルなんですが、ただ古典組踊、朝薫の「孝行の巻」でも大蛇や神が登場するなどスペクタクル性はあり、また「銘苅子」でも天女が大きな松の木を登るように天に昇るドラマティックな場面があります。舞台装置による舞台の面白さの追及は変わりがないと言えますね。ただこの場合船が実際に黒子のような踊り手によって動き、舞台により写実性や海の侵攻のイメージを鮮やかに創りだしています。ヒロインのクニカサが国王と愛を結ぶのがドラマの切っ掛けになります。男シャーマン安里と女シャーマンクニカサの闘いだと物語の筋書きは述べています。これは新作組踊なのですが、現代劇と言ってもいいですね。

大城:赤い着物をつけていたのがヒロインのクニカサなんですけれど、これが国王と契を結んだということがドラマの切っ掛けになるわけですが、それを潰そうとするのが男のシャーマンで、その男と女シャーマン同士の闘い、このドラマの中ではクニカサという女性シャーマンは潰されていきます。けれどもこれはひとつの琉球歴史のもともと宗教的エネルギーを持っていた女性シャーマンが男性的合理主義者のシャーマン安里に潰されていくのがテーマになっています。これが女性文化から男性文化へ移行していくきっかけになっています。琉球の歴史全体が女性文化から男性文化に移っていくという契機であるというのが、私の狙いです。

与那覇:女性文化から男性文化への移行は、先生の小説の中でも大きなテーマになっているかと思いますが、その時期は、第二尚氏の隆盛期の後ではないかという考えもあります。また慶長14(1609)年の薩摩侵攻以降とも考えられます。その辺りに関してはまたいろいろなご意見があるろうかと思います。しかし滅びゆく二人が死後も愛を全うするという陶酔感のある組踊になっていますね。

大城:これはせめてもの救いですね。演劇的に言えばカタルシスなんですよ。

与那覇:最後にお見せするのは喜劇として登場しました組踊『遁(ひん)ぎれ結婚(にいびち)』です。1972年の復帰の年を背景にしています。復帰後のコザの街を舞台に、27年間の沖縄の米軍占領も暗示しているかと思います。

 【遁ぎれ結婚】梗概

   コザ吉原といえば、戦後の沖縄で生まれた遊郭として、有名である。この店の主はシマ子であるか、息子の正彦であるが、分かりにくいところがる。シマ子は何人かの遊女をかかえて、そこそこの仕事をしているが、どら息子の正彦は、今日も賭博に負けては逃げてきた。昼間の遊郭はしずかだが、正彦は借金の始末を親に頼ろうとして、親子口論がはじまる。親としては、いいかげん身を固めることを考えろという。じつはと、正彦は、ヤマト旅行でいい女に出会って約束をしてある、近いうちに訪ねてくることになっているから心配するな、と言う。シマ子は嬉しい反面、近いうちに日本復帰すれば、この商売は成り立っていかないという心配もある。

 親と子がうやむやのうちに現れたのは遊女の佐和子で、シマ子ははじめのうち、復帰までに借金返せと冷たい。佐和子は死んだ父親の形見だと日の丸を出し、日本復帰をすれば、これは金になるはずだと、訳の分からないことを言う。が、そのうちヤクザがやってきて、正彦の借金を返せと迫ると、佐和子がそれを見事に追い返す。その度胸にシマ子が感心し、どうだ、正彦の嫁にならないか、ヤマトンチュの嫁よりはよいと、唆す。佐和子は、結婚と借金返済と二つが片付くならと、単純に喜ぶ。

    そこへ、ヤマトから婚約した友美がやってきて、佐和子と頓珍漢なやり取りをして、友美が訊く。

    「あなた、正彦さんを、本当に好きか?」
    「借金のためなら」
    借金なら復帰すれば、売春防止法でチャラにすることができると友美が教え、それなら話が変わったと佐和子が納得し、二人は一緒に正彦を見限って逃げる。

   【DVDは、後半佐和子と友美が出会って二人で「日の丸の旗」を間に衣装をすり替えた後に逃げる場面】

大城:友美の「あなた幸せにどれ選ぶ」の台詞は8・6調になっています。組踊の唱えのリズムに日本語が乗せられるか実験してみたんですが、乗せられたので満足しています。

与那覇:そうですね。うまく乗っていますね。日本語のつらねもうまく乗っています。友美は本土で正彦と出会って沖縄にやってきたという設定ですが舞台ではなぜか佐和子と友美の二人の女が出会って、日本復帰を境にした変化を表象しています。日の丸をはさんで衣装まで変わっていくという面白い演出ですが、二人の女は逃げるわけですから、日本復帰に対する批判の視点もありますね。大城先生はどちらかといいますと伊波普猷さんに連なるような同化志向性をもっていらっしゃるのかと思うのですが、作品を見ると意外とそうではないのだと感じさせます。日本復帰に対して抵抗するような心情を十分持っていらっしゃることが分かります。

大城:復帰に対してはやむをえないという現状認識とそれは嫌いだという批判精神はけっこう同居するんです。我々はずっとそれを引きずっているんだろうと思います。

与那覇:娼婦の佐和子はまさに沖縄的なものを喜劇的に代表しているのではないかと考えています。彼女の赤い衣装はどことなく西洋風でもあり和装風でもあり、27年間の米軍占領を象徴していると思います。日の丸と昭和天皇の写真がヤクザを退散させたり、かなり皮肉がこめられていますね。玉城満さんの演出は、ちゃんぷるー【注5】で面白かったです。ジュリ馬を冒頭と最後に出したのは華があって良かったのですが、戦前の辻遊郭と戦後のコザの特飲街との違いがあり気になりましたが、戦後すぐにジュリ馬がコザでお披露目されたという話がありますね。日の丸と星条旗を並べてみるのも面白かったような気がします。

   最後に、まだ上演はされていないのですが「花の幻」についてお話をおうかがいしたいと思います。

【花の幻】梗概

   沖縄は戦場になった。あらゆる生活が破壊された。遊郭の辻町も焼けはて、遊女たちも散り散りになった。遊女オミトの登場に劇ははじまる。彼女は独りになったが、気丈に命をたくわえている。

  一方で、オミトの踊りの師匠である踊玉城は、その道で弟子を四十年も育ててきたが、戦争にぶつかって思わぬ運命に弄ばれることになり、自分の命と島の芸能の行く末を歎くばかり。娘の澄子は、夫の和男を兵役に送ったあと、父を励ましてともに戦場をさまよいながら、しかし彼女とて、行き先に自信があるわけではない。二人の胸を去来するのは、命の心配とともに、島の芸能が戦争でどうなるかという憂いである。踊玉城は、弟子のオミトの才能を忘れがたく、澄子が和男とオミトと三人で力をあわせて、島の芸能を育ててくれと望む。そこで二人は期せずして一緒に、澄子の夫の和男が「浜千鳥」を踊る幻を見て、澄子はいつのまにか起ちあがり一緒に踊る。その体験は幻とも思えず、そこに二人でかすかな希望をもつ。

   親子とオミトとの出会いは、偶然におとずれた。ヤマトの敗残兵が飢えて、三線を八つ当たりしているのを、オミトが撃退したところで、三人は再会を喜ぶ。踊玉城は、ついに事切れる。澄子とオミトは、踊玉城の志を継ごうと誓いあう。

【この作品はまだ上演されていない。しかし大城立裕氏の思い入れの深さは、新作組踊十番の本の題になっていることでも明らかだろう】

与那覇:「花の幻」は実はとても沖縄の芸能を象徴する作品だと言えるかと思います。沖縄の住民12万人以上が命を失った60年前の沖縄戦を舞台にしていますね。

大城:「花の幻」というのは、五つの時代をひとつずつ書くといいましたけれども、戦争場面を組踊で描くというのはひとつの実験でした。まず困ったのは音楽です。古典音楽で戦争場面の表現ができないですよね。ですからこれを上演するに当たっては、新しい曲を創ってもらわないとなるまいかと思っております。そこで沖縄戦を書くについて、どのようなストーリーにしょうかと考えてみました場合に、玉城盛重【注6】という明治時代の名人がいましてこの人が戦争まで生き延びてきた人ですが、沖縄戦のとき島尻で餓死したという話を聞いております。非常に痛ましいことです。これをモチーフにしまして沖縄の芸能がこの戦争を生き延びるかという問いかけをしまして、それに応えるといいますか、生き延びるだろうか、生き延びてほしいという思いをテーマにして組踊に組んだつもりです。

与那覇:昨夜、演劇学会の会員の先生方が県立郷土劇場でごらんなった「金細工」の振り付けをしたとも言われています玉城盛重は、沖縄芸能では高く評価されている琉球舞踊と組踊の名人です。盛重の甥に当たるのが玉城盛義【注7】ですね。盛重のお弟子としてここで注目せざるをえないのはジュリのオミトです。どうもこのオミトというのはおそらく戦前の辻遊郭でその芸の評判が高かった乙姫劇団の初代団長上間郁子さんをイメージさせます。それと澄子という娘が登場するのですが、名前から類推すると松含流の比嘉澄子さんもイメージされているのではないかと思えます。ですから戦場で亡くなられた玉城盛重だけではなく玉城盛義、新垣松含【注8】、他玉城流や辻の女性たちを含め、沖縄芸能に関わってこられた方々全てが網羅された形で作品に結晶化されていると見ています。「花の幻や いつまでも美らさ 踊りいつまでも 情ばかり」の琉歌が最後に寄せられているのですが、大城先生ご自身の思いがこめられていると思えます。

大城:ドラマに女性をよく書くと言われますけれども、なぜ女性を書くかといいますと、沖縄の女性史は、なかんずく遊女が書きやすいといいますか、現実として下積みなわけですよ。これがドラマの中の闘いにおいて精神的なだけでも上にあがるという、下積みから上に上がってくるエネルギー、これがドラマとして面白くなるというそれだけの理由ですがね。

与那覇:私は最近辻や仲島遊郭の女性たちが担ってきた芸能についてちゃんとした形で評価すべきではないかという立場でしばらく掘ってきたのですが、潜在的に無意識に逆に沖縄の芸能史をこういう形で表現して下さったことが嬉しく、感謝しています。「花風」や「金細工」などみなさん毎日のようにたくさん踊っているのですが、その背景に何があったのか、意外と沖縄の芸能史で無視されているんですね。それと古典女踊りの「諸屯(しゅどぅん)」にしても、あの女性のモデルは首里王府の貴族層や士族層のチミジュリ【注9】だった美しい女性たちだと私は考えています。歌からしても琉歌は恋の歌が多いですね。早稲田大学教授の勝方恵子先生が『おきなわ女性学事始』の著書で宿の女は魔女であり、新しい信仰宗教にパージされたのだと、また恋の時代から義理の社会へと移っていった時代だという面白い見解を述べていますが、当時自由恋愛を楽しんでいたのは村々で「毛あそび」をしていた若い男女、首里の士族層はどうだったのかといいますと、彼らの恋愛の対象は辻や仲島のジュリだったと思うのです。

高良倉吉さんという歴史家の琉球大学教授が当時の士族層の美の対象はやはり辻や仲島の女性たちだったとおっしゃっています。そういう意味でも古典女踊りも彼女たちの影響が大分あるのではないかと考えています。もう一点強調したいことは、1719年に朝薫の組踊が始めて上演された年に、新井白石が『南島誌』という本を上梓しています。琉球史ですが、その中にその当時ジュリの女性たちが村々(間切)に出向いて歌・三線や舞踊を披露していたことが記録されています。もっと掘っていくと思いがけないことがもっと出てくるのではないかと思いますね。

最後に組踊とは何か、という定義のことについてなのですが、當間一郎さんは「三線音楽と舞踊と台詞の組み合わせからなる楽劇」と定義しています。矢野輝雄さんは「琉歌とそれを演奏する三線音楽と踊りを組み合わせ、台詞と歌三線で台本を構成し、これに伴う所作や舞踊によって演じられる歌劇」と長い定義をされています。今回、このパンフの中で紹介されました大城先生の新しい定義は「琉歌と韻文詞章と踊り、それらを琉球音楽にのせる」と、かなりシンプルになっています。これは新作五番を書かれて後さらに15作品に挑戦されてきた上での新たな定義だと思います。

  これで対談を閉めたいと思います。ありがとうございました。質疑の時間を10分ほど残しています。よろしくお願いします。

 【質疑】
武井:最後に組踊の定義がありましたが、組踊に関しましては仕組み踊りであるという説がございます。これは鳥越文蔵先生が最初におっしゃって郡司正勝先生が文書にされたものです。あのこういうふうに考えないと、つまり元禄歌舞伎の仕組みですね。玉城朝薫は旧国の故事を今まであった演劇的なもの、「長者の大主」のようなもの、それに仕組んだという風に考えないと――。玉城朝薫が組踊を作ったんだということは実は言えないですよね。あの『球陽』にも家譜にも玉城朝薫は組踊の創始者でるというような事は書いてない。旧国の故事を取り入れたのが始めてだという風にしか書いてないわけですね。あの記事をもって決して朝薫を組踊の創始者だという風に言う事はできないわけです。もし朝薫が創始者だというんだったら、仕組んだのが「長者の大主」のようなものに仕組んだのが朝薫だということがもしも言えれば、創始者だと言えるわけです。そういうことを考えているんですけれどもいかがでしょうか?

大城:仕組みだったのは、組踊をもってしたのがはじめで、組踊そのものはもっと前からあったということは言われています。

武井:大城先生はちゃんとおっしゃったと思います。与那覇さんも折口信夫の説を引かれてもっと前からあったんではないかとちゃんとおっしゃっていると思うんですが、ただ沖縄では玉城朝薫が創始したという言い方をずっとしています。これはもう一度考え直さないといけない。

大城:それは確かにおっしゃる通りだと思います。とにかくジャンルそのものは前からあったが、ほんとに今日でも見るに耐えるだけのドラマに仕上げたのは朝薫がはじめてだろうとその程度に考えているのですが・・・。

武井:玉城朝薫は薩摩屋敷で歌舞伎を見ております。座敷に薩摩のお殿様が歌舞伎を呼んでそれは「踊り狂言」だったと思うのですが、狂言踊りで歌舞伎をさす場合がございます。はっきりと歌舞伎を見ております。ですから今まで能楽の影響を第一に考えられてきた組踊というのは、歌舞伎の方をもっと考えないといけない。手水の縁、花売りの縁あのタイトルのつけ方は初期歌舞伎だったんです。他の文芸には「――の縁」はまず見られないと思います。近世謡曲まであたってないので天野先生におうかがいしたいのですが、「――の縁」という非常に特徴的な言い方、これは初期歌舞伎では「おとし文の縁」ですとか、「しくれのゑん」ですとかそういうタイトルがございます。ですから歌舞伎の影響は今までこの論文を15年前に書いたのですけど、ずっとやっぱり能楽の影響が一番だと、言われてきている。歌舞伎と比べますと、朝薫の書いたものというのは例えばきのう見せていただいた「執心鐘入」のあの構造も歌舞伎の方にございます。そして「羽衣」、歌舞伎の方の「羽衣」はちゃんと子役が登場いたします。ということで歌舞伎との縁を考えないといけないなーと思っています。

与那覇:武井先生は以前『若衆歌舞伎・野郎歌舞伎の研究』【注10】のご本を出されていて、その中で組踊と歌舞伎の比較検証もまとめられていますが、確かに歌舞伎との類似性や違いなど、沖縄ではあまり意識されることがなかったようです。今後しっかりその点を踏まえたいと思います。

フランセス:ハワイ大学院の学生です。新作組踊の中の女性についてですが、大城先生は現代の女性たちに何をメッセージなさりたいのですか?先生のイデオロギー的なお立場がよく見えません。例えば「遁ぎれ結婚」の女性たちは何を求めているのですか?二人の女性が逃げる時、日本女性は前で沖縄女性は後ですがなぜですか?

大城:ぐうたらな男から逃げましょう。女たちは結婚からも遊郭からも逃げますがこのドラマはもっと絡み合いがあっても良かったと思うんですが、作品のメッセージ性は読み取ってもいいのですが、作者としてはそれ以前に芝居として面白い物を書くというのが先で、メッセージはついでのもののようなところがあります。メッセージを深読みするのは読者の勝手です。私のこういう言い分は逃げと言えば逃げですがね。本土の人が先に立って行くのは演出によるもので、沖縄から大和へ逃げようということですから、日本人の女性が先に立つということでしょうね。

新城:琉球大学の非常勤講師です。感想になりますが、ユタとノロの二つを併せ持った女性、琉球王朝の時代にエロスと聖エネルギーをもった女性、太陽と月のエネルギーの両方を兼ね持った女性像が描かれたらいいなーと思います。スクリーンを見ますと子供が持つエネルギーが演技術を超えて迫ってきました。組踊の中に二つを兼ねた普遍的な女性像が描かれ、16歳以下のユース組踊もあればいいと思います。

大城:大変ありがたいご意見です。これから努めたいと思います。

与那覇:エロスと聖エネルギーを兼ねた女性とは、まさにかつての辻のジュリではないでしょうか。それから16歳以下の子供たちの組踊も最近盛んになっております。

司会【注11】:これで終わりたいと思います。ありがとうございました。

<注>

★十数年前の研究大会での対談ですが、去年他界された大城立裕氏の新作組踊への思いが分かります。

(1)この対談は2007年11月23日から25日まで沖縄県那覇市で開催された日本演劇学会秋の研究集会のプログラムの一環として公開された。対談の中身は、一部編集している。
(2)「花の碑」は『大城立裕全集』第4巻(晩誠出版、2002年)に収録されている。
(3) 大城立裕作「新作組踊五番」の梗概をこの対談の中で紹介することにした。すべて『琉球楽劇集真殊道』(琉球新報社、2001年)からの転載である。
(4)沖縄芝居では七色元結の女を人柱にしたら良いと、夢に神様の知らせがあったと進言した女性(カミンチュ)が実は思いもよらずその当人だということで、泣く泣く乳のみ子を残し人柱になる。このカミンチュは村落祭祀の儀礼を施す女性。ユタと重なることもある。
(5) 沖縄方言で混ぜ合わせていること。文化的融合である。
(6)(1868-1945)明治、大正、昭和の沖縄演劇と芸能界を代表する舞踊家、名優。
(7)(1889-1971)沖縄芝居役者、舞踊家。玉城流玉扇会初代家元。『玉城盛義―評伝』(玉城流玉扇会、2006年)参照。
(8) (1880-1937)御冠船踊を継承した舞踊家、沖縄芝居役者。玉城盛重、渡嘉敷守良とならぶ名優。
(9)ジュリとは1672年に辻村に設立されたいわゆる遊郭の女性たちの名称である。尾類とも表記されている。チミジュリは、辻(花の島)で首里王府の貴族・士族層の妾になった女性たちを称する。
(10)武井協三『若衆歌舞伎・野郎歌舞伎の研究』(八木書店、2,000年)
(11) 総合司会は関西外国語大学教授田尻陽一先生。

(後ほど対談当時の写真をUPします!)


よろしければサポートお願いします。  サポートは今後の活動費に活かしていきたいと思います。