amazarashiについて語りたい~ワンルーム叙事詩~
「歌詞を見ながら聴きたい曲が、いまいくつあるだろう」
私が胸を打たれてやまないamazarashiの歌詞たち。
その中から1曲ずつ歌詞の一部を取り出し、考えたことや感じたことを書き連ねたい。散文、乱文。思いつくままに書いていきたい。
ぜひ記事を読んだ後に紹介した曲に興味を持ったら聴いてみてほしい。
今回取り上げるのは『ワンルーム叙事詩』。
アルバム『ワンルーム叙事詩』に収録された一曲。
このアルバム改めて見たけど渋い曲が多いですね。
漠然とした希望に縋ることは、これまで積み上げてきたものを信じ続けることは、果たしてこの先を照らす光になるのか。
それらを燃やし尽くした焼け野原の中、何を想うだろうか。
その場にいて、文字を叩くだけで、その時に起きていること、起きたことが伝わってくる。
情報は止めどなく、見たいものからそうでないものまで容赦なく脳裏に焼き付く。
どんどんと加速していって、自分が他よりも本当は恵まれているのかもしれないと感じる。その相対的な幸福は錯覚か。幸福とは何かという問答に辿り着く。
流行り廃りの中にある「死にたい」とか、「生きづらい」とか、そういう言葉ばかりがでかく聞こえる。
笑って言えることならば、やっぱり流行り廃りの言葉だろうか。それとも心を壊して笑っているのか。
その流行りに浸っているのは私もまた同じだから、もう全部が嫌になった。
きれいな風景に映し出すのは後悔とか、不安とか、怒りとか、孤独とか、それに似合わない仄暗いものばかり。
だからこの流行り廃りに浸っているのは自分なのだと再確認する。
明日はよくなる。きっと。多分。恐らく。でも。いやきっと。やっぱり。
そんな繰り返しを繰り返して、雨に出かけず、風に引き返し、雪に立ち止まり、暑さに萎びた。
こんなもんが自分の人生か。自覚の上の自堕落。負けたくないという本音はしかし、たやすく繰り返しに飲み込まれてきた。
だから燃やした。どんどん燃やした。
自暴自棄になると世界が遠のく。
大事だと思っていたものを燃やしてもまだ、自分は自分だったので驚く。
自分の一部のように思っていたのだけれど、事実はそうではなかったのだろうか。
自分の世界と外、という分け方で、それならば外は途方もなく遠いと思っていた。
こんなにも自分はこんな風なのに、世間はお祭り騒ぎを平気でやるものだから。
ふと別にそれらは隣り合わせだと気付くと馬鹿らしくもなる。
どんどん燃えてしまえ。隣人も巻き込んで、全部全部。
これまでの努力で実らなくて、でも努力した苦労は捨てるには惜しくて。
その努力が間違っていたと認めることが怖かった。だから繰り返しを繰り返した。
いつか報われることを夢想した。でもそのいつかにいつか辿り着けるものなのかもわからない。
少なくともこれまで浸ってきた苦しさは何かを実らせることはなかった。
実らないのであればせめてこの先の自分の燃料にしたい。
否定するのではなく動機にしたい。
明日の自分を走らせるのは昨日までの自分だ。
燃やし尽くしたとしても灰になって、なかったことにはならない。
結局は過去を捨てることなんてできない。だからこれは覚悟の話だと思う。
進むと決めたのは自分だから、終わらせられるのも自分だけだ。
だったらどこまでだって行ける。自分にさえ負けなければ。
これは覚悟の話。自分には負けないと決めた日の話。
焼け野原から見える朝日はどんな景色だったろうか。
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