見出し画像

amazarashiについて語りたい~独白~

「歌詞を見ながら聴きたい曲が、いまいくつあるだろう」
私が胸を打たれてやまないamazarashiの歌詞たち。
その中から1曲ずつ歌詞の一部を取り出し、考えたことや感じたことを書き連ねたい。散文、乱文。思いつくままに書いていきたい。

今回取り上げるのは『独白』。
アルバム『ボイコット』に収録されている曲です。
こちらは初めて武道館でおこなわれたライブ『朗読演奏実験空間“新言語秩序”』にて初出しされた曲でもあります。
このライブはMCがなく、曲の間で物語の朗読がおこなわれました。
その物語の最後の場面、主人公が聴衆に向かって自分自身の内部の抑圧された感情を話し始めるシーンからノンストップでこの歌に突入します。

その主人公がそのままボーカル秋田さんであるかのような演出、それまで物語で紡がれてきた世界観、主人公の立ち位置。
一体誰が、何のために、どこに向けて「独白」するのだろうというところが明らかになって、叩きつけるように、叫びをあげるように歌い上げ、そのまま終演するというカタルシス。
本当に最高のライブだった。
人は、私は、言葉によって作られている。

私が私を語るほどに 私から遠く離れていくのは何故でしょうか?

この一言にまずぶん殴られた。
言葉にするほど私の心から離れていくような感覚はこれまでも、そしてこれからも感じていくことなのだろうと思っている。
何故なのだろう。上手く伝えることができないもどかしさに溺れそうになる。

殴られた痣はすぐ消えてしまった いっそ消えずに一生残ればよかった
誰かを憎む理由をこの身体に誇示して すべてを切り裂く免罪符となれ

その証明があれば人を憎むことも許されると考えたことはあるだろうか。
憎みたくもないし、罪悪感ももちろんある。でも心は自動的に思考を回していく。
だから自分を許すための免罪符が必要だった。
それが消えてしまえば、その過去があった事実すら消えてしまうように思えた。それは悔しくて悔しくてたまらなかったのだと思う。

「どこにでもいる真面目な子でした」 「まさかあの子が」
世間様の暇つぶしに辱められた自尊が 良からぬ企みを身ごもるのも必然で
言葉を殺した あれが死に損ないの言葉ゾンビ
『言葉を殺した』という言葉だけが残った 途方に暮れた十五歳の夏

勝手に想像される私にだって、言いたい言葉は腐るほどあったし、それが悪い言葉であることもわかっていた。
だから言葉を殺してきた。それでも殺した事実や罪悪感は残っていて、その空白は真っ黒な心の中で強調されていく。
これが正しいことなのかもわからないまま、幼さは途方に暮れていた。

愛されなかった分や 報われなかった分や 人それぞれの身体に空いた無数の穴ぼこ
埋め合わせるために犠牲になった何かが 差し詰め生涯悔やむことになる惨たらしい致命傷

埋め合わせのために選んだものが、結果的に自分の首を絞めることなんてよくあることで。破滅的だと自嘲しながらも手は止まらないし、埋めるために適当なかたちのものなんてそもそもないし、無理矢理にねじ込むものだから、穴ぼこはどんどん歪になっていく。

「まさかあの子が」と口走る前に顧みる 私の過去の痛みはあの子のためにこそ使う
「言葉にならない」気持ちは言葉にするべきだ
「例えようのない」その状況こそ例えるべきだ
「言葉もない」という言葉が何を伝えてんのか
君自身の言葉で自身を定義するんだ

ここの「あの子」は過去の自分自身でもあって、他の誰かでもあると思っている。
自分を決めるのは自分自身で、どうにかこうにか言葉にして、言葉にならない部分の理由を突き止めるべきだ。

流れていった涙や後悔の時間に 今更しがみつくほどの未練は持ち合わせず
過去の痛みが全て報われたわけじゃない 私の痛みは君の失望にこそ芽吹く

この痛みをどうやって使えばいいのか。特別だと感じたあなたに使って差支えないだろうか。
全てが報われたわけではないし、全てが報われることなんてないと思うけれど、それでも、この空白に意味を持たせることができたならとあの日の私は考えたのだと思う。

この物語はフィクションであり、実在する事件、団体、人物との
いかなる類似も必然の一致だ だが現実の方がよっぽど無慈悲だ

似たような話を聞いたことがあるのは当たり前の話。
人間が想像できるものは実在していて然るべき。
どこかに実在するのだから、現実の方が無慈悲なのは至極当然なこと。

音楽や小説 映画とか漫画 テレビ ラジオ インターネット
母が赤ん坊に語る言葉 友人との会話
傷つけられた言葉 嬉しくて嬉しくてたまらなかった言葉
喜び 悲しみ 怒りだとか憎しみ かつての絶望が残す 
死ぬまで消えない染み
それが綺麗な思い出まで侵食して汚すから 思い出も言葉も消えてしまえばいいと思った

どんな些細な言葉であっても、それは薬であってナイフでもある。相手にとっても自分にとっても。
この言葉がナイフでないことを祈るけれど、果たしてそれは、と不意に怖くなることがある。こと自分に対して嘘は吐けないから鋭利なナイフになりがちでもある。
思い出は簡単に裏返る。支えられていたのに、信じることができなくなることがある。
そのきっかけはやっぱり言葉で、誰かのものであったり、自分のものであったりする。

言葉は積み重なる 人間を形作る 私が私自身を説き伏せてきたように
一行では無理でも十万行ならどうか
一日では無理でも十年を経たならどうか
奪われた言葉が やむにやまれぬ言葉が
私自身が手を下し 息絶えた言葉が
この先の行く末を決定づけるとするなら その言葉を 再び私たちの手の中に

これまでの言葉が自分を作ったのだから、これからの自分を作るのはまた言葉だ。
どうなりたいか。どう在りたいか。
その願望はこれまでの自分と地続きでなくてもいい。どれだけかかろうが、積み重なって出来上がっていくはずだ。それはこれまでの自分が証明している。
だからこそ、自ら殺した言葉を、もう一度手に入れるところから始めていく。

本当にあのライブは、あの独白は、頭に痺れを残したまま終わった。
確かに私自身の血肉になった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?