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講談三国志演義@らかちゅうさん「宴桃園豪傑三結義、斬黄巾英雄首立功(1のその1)」

宴桃園豪傑三結義、斬黄巾英雄首立功(1のその1)


ご挨拶

司会
「本日は人気講談師のらかちゅうさんによる三国志演義の一席を皆さまに楽しんでいただきます。公演に先立ちまして、らかちゅうさんより口上をお願いいたします。」

まことに光栄でございます。皆さま方、本日はご多用中のところをこの三国志講談の会の場にお運びいただき、まことにありがとうございます。
講談師のらかちゅうでございますがご存知でありましょうか?あ、ご存知ですか、それはそれはありがとうございます。

この講談師らかちゅう、生まれも育ちも日本の国でございますれども、幼少より中国の歴史や文学に心酔し、特に三国志の世界に魂を奪われてしまいました。
三国志演義は、中国の名著の中でも最高峰の傑作と仰がれ、千年以上の時を経ても色あせることのない不朽の名作でございます。

この講談を通じて、皆々様に三国志の世界を味わっていただきたく存じます。英雄たちの喜びや悲しみ、栄光と挫折を、私の語りで心に刻んでいってくださいませ。

あーさて、本日の題目は「宴桃園豪傑三結義、斬黄巾英雄首立功」、つまり桃園の三英傑が結義を立て、黄巾賊を征伐した英雄譚でございます。
最後まで語ることはできないかもしれませんが、時間が許す限り、お聴きいただければ幸いでございます。

三国志の世界を象徴する名句

詞曰:
滾滾長江東逝水、浪花淘尽英雄。
是非成敗転頭空、青山依旧在、幾度夕陽紅。
白髮漁樵江渚上、慣看秋月春風。
一壺濁酒喜相逢、古今多少事、都付笑談中。

ああ、偉大なる詞人の言葉でございます。

滾滾(ごんごん)と逝く長江の流れ、英雄たちを淘尽(とうじん)する浪花の如し。
是非(ぜひ)成敗(せいばい)ただ虚しく、青山は依然(いぜん)そこに在り、幾度(いくたび)か夕陽映す江の流れ。
白髮の漁樵(ぎょしょう)、江渚(こうじょ)に憩う、秋月春風、これ見慣れりと。
一壺の濁酒を酌み交わし喜びに事欠かず、古今数々の出来事、ことごとく笑談(しょうだん)の種。

東に流れゆく滾々たる長江の水は、英雄たちをその波にさらい去りました。
是非も成敗も、ひと振りすれば虚しいものです。青山はなおも変わらず在り、夕陽の残る日々は尽きることなく。
白髪の漁師と樵は、江の岸辺で秋の月、春の風に慣れ親しみ、
濁り酒一壺を酌み交わし、昔今の事ずくなを笑い語り明かすのです。

はかなき人生、浮世の無常を詠んだ詞でございますな。
英雄も最期は老い果て、青山に帰るのみ。
しかし、そこに生きる喜びがあるということでしょう。
人間万事、尽くすに盡きることなく。しかしその有り余る思いを、詞に詠み、酒に溺れて慰める。
そういった風流の心を、詞人は教えてくれているのでございます。

まさにこの詩は、三国志の世界を象徴する名句と言えましょう。

英雄たちの栄枯盛衰を洗う長江の流れ。青山の如く永遠に存在する自然の営み。
人の世の出来事は去り来すれども、江山は常に在り続ける。
人生の無常を喩えながら、江山の雄大さを詠んだ名句でございます。

中涓の乱れ

聞くところ、天下の大勢というのは、分かれれば久しくして必ず合わさり、合わされば久しくして必ず分かれんとするものでございます。

周の七国が分争した後、ついには秦に併合されました。そして秦が滅びた後は、楚と漢が争い、また漢に併合されたのであります。まさに合分は繰り返すものであります。

漢の朝は高祖が白蛇を斬って義挙に興り、天下を一統したのでした。後に光武帝が中興の業を成し、献帝に至るまで継承されましたが、やがて三国に分かれてしまいました。

この乱れの由来を推すに、殆ど桓帝と霊帝の二代に始まったと言えましょう。

桓帝は、賢良な人物を疎んじ、宦官を重んじました。桓帝が崩じた後、霊帝が即位すると、大将軍の竇武と太傅の陳蕃が共に輔佐しておりました。

この時、宦官の曹節らが権力を弄んでいたんですね。それに対して、竇武と陳蕃らが彼らを誅すべく謀りを立てたのですが、その計画が漏れてしまい、かえって自身が害されてしまったのです。
この中涓の乱れは、ここに端を発し、ますます横行するようになったのであります。

中涓とは、禁中の掃除を司る者たちのことを指しているのでございます。
「中」は禁中、つまり天子の居る場所を表し、「涓」は本来、清潔、澄み切った意味合いがあります。
つまり、この中涓とは、天子の左右に仕えて、禁中の清掃や整頓を担当する重要な役割を担っていた人々、いわゆる宦官のことなのであります。
この宦官の権力が肥大化し、そのために正直な臣下が危険に晒されるという、まことに憂慮すべき事態が生じていたのですね。

天変地異

さてここで、まことに驚くべき出来事ばかり立て続けに起こります。

まずは建寧二年の四月望日、陛下は温德殿に御座なされておりました。
まさにその時!!突如として殿角に狂風が吹き荒れ始めたのです。
そして、その狂風とともに、一匹の大きな青蛇が、梁から飛び降りるように現れたと伝えられています。その青蛇は、まるで陛下の御座に巻き付くように、椅子の上に蟠踞したというのです。帝の御座の上に巻きついたというのは、まさに天変地異といえましょう。

帝は驚いて倒れてしまい、それ一大事と左右の近臣たちは、慌てて天子を介抱し、宮殿の奥へと急ぎ運び込む。そして、百官たちも右往左往と一斉に逃げ惑うほどの光景だったとか。
それから間もなく、大雷雨と共に、氷雹まで降り注いで、数多くの建物が壊されるというから、たまったもんじゃない。

建寧四年二月には洛陽で地震が起こり、さらに海水が溢れ出て、沿海の人々が大波に呑み込まれたという報せもあります。津波であります。

そして光和元年には、雌鶏が雄に変わるという不思議な出来事も起きたと。さらに六月には、黒い気体が温德殿に飛び込んできたとか、秋七月には、玉堂に虹が現れ、五原山の崖が崩れ落ちたとか、このように、種々の異変が次々と起こっているのは、まさに何かの前触れなのかもしれませんね。

これらの不吉な兆しは、果たして何を意味しているのでしょうか。帝室の御心配もさぞかしなさることでしょう。

十常侍

さあ、このような重大な事態に際し、帝は群臣に問題の根源を問うのは至極当然のこと。

それに対して議郎の蔡邕という人、上疏を提出し・・・えー上疏とは、臣下が君主に対して提出する書面のことですね、臣下が自らの考えや提言をお上に訴える手段となりますが、これを提出したのです。
その内容というのが「鶏が雌雄を取り替えるという異変は、まさに宦官の干政によるものだ」と、ド直球に指摘したそうです。

帝はその奏上を見て深く溜息をつくと、帝は更衣、つまり衣服を新しくしたのだとか。これは、帝が蔡邕の言葉に深く心を動かされ、何か決意をされたのではないかと私は思うわけであります。

しか~し!!これはドラマでよくあるシーン。物陰に潜む人影、このときは宦官の曹節でありますが、これを盗み読みして、こりゃマズいとばかりに蔡邕を他の罪に陥れて、田舎に放逐してしまったとは、まことに憐れな話です。

そして、その後に張讓、趙忠、封諝、段珪、曹節、候覽、蹇碩、程曠、夏惲、郭勝の十人が結託し常に帝に侍奉するという意味の「十常侍」と呼ばれるようになったのですね。

帝は特に張讓を重用し、「阿父」と呼んで慕っていたそうですが、その結果、朝政は日々に悪化し、天下人心が乱れ、盗賊まで蜂起するようになったとのことです。

ああ、まさに中涓の乱れが、再び顕在化したというわけですな。

鉅鹿郡に兄弟三人

場面変わって、時に、鉅鹿郡に兄弟三人がおりました。そのうちの長兄が張角というのですが、彼は落第書生であります。

この張角、ある時、山中で薬草を採取をしていると、碧眼童顔の老人に出会うのですが、その老人「太平要術」と呼ばれる天書を張角に三巻授け「これを得れば、天下を救うことができる。ただし、異心を抱いてはならない」と告げるのです。

まさかそのような異様な老人が現れたとは、まことに驚くべき出来事であります。
通常、我々人間が目にする老人というのは、白髪白須、しわくちゃの顔立ちのものですからね。ところが、この老人は碧眼で、童顔だったというのは、まるで別世界の存在のようです。
一体どこからどのように現れたのか、私にはまったく理解できません。しかも、そのような不思議な老人が、あの「太平要術」なる天書を授けたというのですから、さらに不可解な事態だと言わざるを得ません。

そして老人は、自らが南華老仙であると名乗り、そのまま風に乗って消えていったというのですから、まさに奇跡的な出来事でございます。
もしや、この老人こそが、伝説に語られる神仙ではないのか。あるいは、魔物の化身なのではないのか。それとも、単なる幻影に過ぎないのか。

兎にも角にも、この太平要術を授かった張角が、一体どのような行動を起こすのか、大変気になるところです。
老仙の言葉にあった通り、もし異心を抱いていれば、必ず悪報を受けるというのは重大な警告であることは間違いなさそうですが。

蒼天已死、黄天富立

張角は、かの碧眼童顔の老人から「太平要術」の天書を授かり、日夜修練に励みます。そして、その術を用いて風雨を呼び起こすことができるようになり、「太平道人」と称するようになるのです。

季節は過ぎて中平元年の正月、疫病が流行した際には、張角はその「太平要術」を活用し、符水を散布して人々の病を治療したのです。これがまた完治者続出というから驚き桃の木です。そして、自らを「大賢良師」と名乗って、民衆から崇敬を集めるようになったのであります。

その徒弟は、なんと五百人以上にも及び、彼らは四方に雲遊して、符や呪文を書くことができたと言います。

やがて、その徒弟たちはさらに増え続け、ついには大小合わせて三十六の「方」を立て、数万の民衆を動員するまでに至ったのであります。各「方」には、「将軍」と称する統率者が置かれていたそうです。
ここに来て、張角の野望がますます明らかになってまいりました。

彼らは「蒼天已死、黄天富立」と訛り、「歲在甲子、天下大吉」と唱え、民家の門に「甲子」の二文字を書かせたそうです。青、幽、徐、冀、荊、揚、兗、豫の八州にまで、その影響が及んでいたとか。

この「蒼天」とは旧体制を、「黄天」とは新しい時代を指すものでしょう。つまり、旧体制を打ち破り、新秩序を樹立しようというのが、張角の目論見だったのです。
「歲在甲子」とは、いわゆる革命の時期が到来したということ。「天下大吉」とは、その革命によって、天下泰平の世が開けるはずだと宣言していたのでしょう。

このように、張角は次第に過激な行動に出ようとしていたのですね。それどころか、馬元義を遣わせて十常侍の封諝とも結託し、内応を企てていたとのことです。
二人の弟とも協議の上、「民心さえ掴めば、天下を取ることができる」と決意したそうです。そして黄色い旗を私製し、蜂起の時期を定めるなどしていたのだとか。
しかし、封諝への遣いに出された弟子の唐州、これを朝廷に密告してしまいました。そのため、帝は大将軍の何進に命じて、馬元義を捕らえ、斬罪に処し、封諝の一族を投獄したのです。

まさに、この張角の乱は、中涓の乱れと絡み合った、まさに天下を賭けた大反乱だったのですね。ただし、発覚する前に粉砕されてしまったわけです。

事態は深刻な局面を迎えようとしておりました。

張角、兵を挙げる

張角は自らの反乱が露見したことを知り、夜を徹して兵を挙げたのです。そして自らを「天公将軍」と称し、弟の張寶を「地公将軍」、もう一人の弟張梁を「人公将軍」と任じました。

そして彼は多くの民衆の前で、「今こそ漢の運命が終わり、大聖人が出る時である。皆も天意に従い、太平の世を開かねばならない」と言い渡したそうです。

するとその呼びかけに応じて、四方から黄巾に身を包んだ民が張角に従い、反乱に加わったのだそうです。その数なんと四・五十万人にも上ったと伝えられています。まさに賊勢浩大、官軍はその勢いに怯えたことでしょう。

帝は危機感を覚え、大将軍の何進に火速で詔を下し、各地で備えと討伐の準備を命じました。

何進は、張角の反乱が露見した途端、「もう大変だ、早く天子に奏上しなきゃ!」と焦りまくったようです。
「陛下、張角の賊兵が四方から押し寄せてきやがります! 早く詔を下して、各地に備えを命じてください!」と、まるで家の中が火事になったかのように、必死に訴えかけたのだとか。

天子もさぞ焦っただろうと想像できますね。「何進、落ち着いて説明しろ!」と、まずは冷静になれと言われたことでしょう。
でも何進は「いや、もう待ってられません!」と、そっちのけで詔を急がせたんでしょう。まるで突っ走る暴走車のようですね(笑)

その詔が各地に届くと、一斉に軍勢が動員されることになりました。盧植、皇甫嵩、朱雋といった中郎将たちが、それぞれ精兵を率いて、三方向から張角の軍勢を討伐に向かうのです。

幽州で義兵募集の榜文が出る

さて、張角の一軍は、まず幽州の境を犯そうとしていました。反乱に立ち向かうべく、幽州の太守である劉焉が動き始めたようですね。

劉焉といえば、江夏の竟陵出身で、なんと漢の魯恭王の末裔だそうですから御大名様ですね。
ところが、この大名様、張角の賊兵が押し寄せてくるとなると、まるで小学生みたいに慌てふためいているのですよ。彼は賊兵が迫ってくる報せを受け、「あぁ、大変だ! 賊兵が来るぞ!」と、すぐに校尉の鄒靖を呼び寄せて、一緒に対策を協議しました。

鄒靖も気の毒なことに、劉焉のあまりの焦りように、「あーはい、はい。そうですね。賊兵は多いですし、我々の兵は少ないですからね。太守、すぐに義兵を募りましょうか。あーもう備えなくてはいけないことくらい、わかってますよ。」と、必死に相槌を打っているところが目に浮かびます。まるで、いつも子供の面倒を見させられる先生みたいな感じですね(笑)

劉焉さんもようやく焦りを抑えて、ちゃんと対策を立てはじめたみたいですね。鄒靖の助言を受けて、劉焉は早速義兵を募る榜文を出したそうですよ。そしてその榜文が、なんと涿県にまで届いたというのは、まさに運命の導きというやつでしょう。

すると、その涿県から、一人の英雄が現れたというわけであります!!

その英雄とは、一体どのような人物だったのでしょうね。年若く気鋭の武将か、それとも知略に長けた老練の大将なのか。あるいは、まだ名も知られていない若き英雄なのかもしれません。
張角の乱に、どのような影響を与えることになるのでしょう。

賊兵は目前に迫っており、劉焉の命を受けた鄒靖は、必死に援軍を求めていたことでしょう。そんな中で現れた英雄に、幽州の民は何を期待したのでしょうか。

まさに運命の人物が、この歴史の舞台に登場しようとしているのです。皆さま、ともに想像力を馳せつつ、この英雄の正体を見守っていきましょう。え?知ってるって?

本日はここまで

おっと!!申し訳ありませんが、そろそろ時間となりました。
さあこれから英雄がというところではありますが、本日は終えさせていただきます。

張角の乱は、まさに三国時代の幕開けを告げるものでした。その戦乱の行方やすえには、やはり運命的な意味合いがあったのかもしれません。

しかしながら、この歴史に登場する英雄たちの活躍なくしては、三国志はなかったことでしょう。

涿県から現れた英雄の正体については、次の機会にでもお話しさせていただきたいと存じます。

この張角の乱を契機に、数多くの名君侠士が活躍の場を与えられたのです。まさに、乱世こそが英雄を生み出すものだったのかもしれません。

皆さま、どうかこの三国志の物語に、引き続きご注目いただければと願っております。歴史に学び、人生の指針を見出していただければ幸いです。

それでは、私の語りはこの辺りで失礼させていただきます。ご清聴、まことにありがとうございました。

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