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「ノラと皇女と野良猫ハート1+2」感想

生きている人、いますか?

お疲れ様です。とりぞーです。

昨日はHARUKAZE最新作「Monkeys!!」の発売日でしたね。

発売日にこの記事あげたかった…ぐぬぬ…

さてもさても。

◇基本情報

・ブランド HARUKAZE
・発売日  2021年02月 ※1は2016年02月、2は2017年10月に発売済み
・ジャンル ファンタジー
・分岐形式 箒型

◇パッケージ

・商品名称 ノラと皇女と野良猫ハート1+2 5周年記念コンプリートパック
 -5th Anniversary Edition-
・購入形態 店売(ソフマップ)※新品
・購入価格 14,820円(税込)
・同梱特典 サウンドトラック・台本・ファンブック

◇傾向

長 ★★★★☆  ※価格に対するテキスト量
重 ★★★☆☆  ※精神的なしんどさ
熱 ★★★☆☆  ※燃える展開の有無
楽 ★★★★☆  ※ギャグの冴え
泣 ★★★★☆  ※全米が泣くか
感 ★★★☆☆  ※余韻を感じるか
難 ★★★☆☆  ※頭が良い人向け
新 ★★★★★  ※斬新さがあるか
エ ★★★★☆  ※濡れ場の数・文章量・CG数
幸 ★★★★☆  ※ハッピーエン度

◇推奨攻略順

1:明日香→未知→シャチ→パトリシア
2:アイリス→ユウラシア→ルーシア→ノブチナ

※制限なし。
※パトリシア・アイリス・ノブチナが抜けて良い印象。

◇プレイ前の印象

 私がノラととの存在を初めて知ったのはいつのことだっただろう、と思い出そうとしたものの、明確な記憶には思い当たりませんでした。随分と昔から存在は認知していたということでしょう。ただ、長らくただの「キャラゲー」だと思い込んでいたのは、恥ずかしながら覚えております。
 以前に、普段はエロゲをやらずアクションゲームやアイドルアニメが好きなオタクの友人と話していて、私がノベルゲームが好きだという話をしたときに「ノラとと」はやったことがあるという話を聞いた覚えがあります。外様にもプレイされてるとは思いのほか有名なのかなと思いましたがしかし、ノリが軽くてギャグが面白いというような話だったので、自分でプレイしようとは思いませんでした。
 2020年12月18日、HARUKAZEが新作を出すというニュースが、twitterでトレンドにあがるくらいに話題になっている様子を見て、代表作としてよく言及されていたノラととは、自分の思っていたよりも”格の高い”作品なのかもしれない、と感じるようになりました。
 それでもまだ手を出すには至らなかったのですが、3つの切っ掛けがあってプレイに踏み切ることとなりました。

 第一に、シナリオ担当がはと氏であると気付いたことです。2019年の秋に「ぬるぺた」というショートアニメが放映されていて、いわゆる覇権アニメのようには有名にならなかったものの、一部のアニメ好きの間で評価が高く、私も夢中になって見ていたのでありました。その脚本を書いていたのがはと氏であったことは覚えていて、それがノラととのライターと同一人物であると繋がった瞬間に、一気にプレイしたいという欲求が高まりました。
 第二に、製品発売時の豪華版購入特典の抱き枕カバーを買ってしまったことです。抱き枕カバーを収集する者、通称”抱き枕er”になりたての頃に、良い抱き枕はいねがー!と通販サイト等を物色していた時に目について、衝動買いしてしまっていたという事情もあります。世の抱き枕erには「ゲームはプレイする暇がないけど可愛いからとりあえず買う」という、時間はないけど金はある高年齢富裕層の猛者もいるようですが、私はやっぱりお気に入りのキャラの抱き枕を買いたいし、買うならゲームもちゃんとプレイしたい、キャラに対して愛着を持ちたいという感情が強いのであります。
 第三に、HARUKAZEの新作「monkeys!!」の発売が迫っていたという都合もありました。事前に発表はあったものの、その日付は予想外に早く、これを買うか買わないか判断するためにも、早急にプレイをしなければという気持ちになりました。奇しくも、この記事を公開した今日は「monkeys!!」の発売日翌日です。この記事は、「monkeys!!」をプレイして過去作品が気になった方に読んで頂けたらいいなぁという想いもありますので是非に。

◇プレイ後の印象(ネタバレ控えめ)

 これはキャラゲーとシナリオゲー、どちらに分類すべきなのだろうか。判断がつきかねないところでした。少なくとも言えるのは、ただのキャラゲーだと考えていたプレイ前の印象は間違いだったということです。そういう意味では、キャラとシナリオの魅力のバランスがとれた隙のない作品だったと結論づけられるかもしれません。
 個人的にはもっとシリアスが多くなりかつ学術的な要素なんかも入ってくるのかな、と想像していたのですが、最後までギャグを忘れず難しくし過ぎない姿勢は、あくまでエンターテイメント作品としての矜持があったように思います。
 しかし全体を通して長かった、と感じました。たいていの作品は一つのルートにつき大きな盛り上がりが1つあるいはせいぜい2つといったところなのに、ノラととは各ルートにいくつも大きな山があって、シリアスを超えてはギャグに戻り間髪入れずまたシリアスへと挑んでいく、まるで何度も登山下山を繰り返させられているようで、なかなか総プレイ時間以上に疲れる作品だったなと感じました。あたかも1時間ジェットコースターに乗せられているような気分でありました。
 
 また、斬新さがある作品だったというのは、大きく感じるところでありました。
 第一に、ナレーションの存在です。いわゆる語りかけ文体で、主人公が交代していく物語でのプロローグにおけるナレーションは、例えば「俺翼」のような作品において見られましたが、主人公と全く異なる存在が常に物語の視点となり語られていくという形式は、私にとって初めての体験であり、面白い試みだと感じました。そしてただ奇をてらって斬新なことをしているのではなく、そこにはちゃんと、そうであるべき明確な理由があったのだとわかる瞬間にはカタルシスがありました。物語における仕掛けとして完璧に機能していたと思います。
 第二に、”ネコのお考え”というショートショートコーナーが区切りのタイミングで挿入されるシステムです。全然大した内容ではなく、本編とも関係ないのですが、箸休め的な意味でプレイヤーを飽きさせない工夫だったように思います。おまけ的な要素が強いパートではありますが、プレイ体験として他作品の作り上げてきた伝統や枠組みを外れてやろうという悪戯心だったり挑戦心のようなものを感じました。後ほど感想でも触れようと思いますが、そもそもこの作品の内容自体が、”伝統”を失った時代を舞台装置としてテーマにしていると考えているので、ゲームの形式を伝統から逸脱させるというのは必要不可欠な試みであったように思います。

◇とりぞーのお考え(こってり)

 プレイしはじめてしばらくは、あまりにしっちゃかめっちゃかで統一感がない様子に、何がしたいのかさっぱり見えてきませんでした。しかし、ルートを1つ攻略する頃にはぼんやりと感じるようになり、1が終わる頃にはおそらくそういうことなんだろうと察し、2をプレイする中で確信に変わる、大きなテーマの存在に打ちのめされたのでした。
 それは、”家族”の再構築であったのだと思います。両親と死別している主人公のノラ(野良)という名前は、頼れる縁(よすが)なくこの世を生きていかねばならぬ、強さと切なさと寂しさが込められた良い設定だと感じます。
 現代という時代は、人と人との繋がりや、古来からの家制度が、弱体化しつつあるという認識は、エビデンスを示さずとも同意を得られるものかと思います。そのような環境を尖らせて投影させた主人公が、反田ノラという青年なのではないか、ということです。
 そんな主人公ノラは、シャチという兄妹のような存在に支えられ孤独を逃れ、多様な友人に恵まれて日々を生きることができています。しかし、そこには先がありません。なぜなら兄妹も友人も、己が生きる支えにはなっても、己の命を託す相手にはなり得ないからです。それ故にこの物語は、パトリシアと出会うことによって始まるのでしょう。
 ではパトリシアとはどういった存在なのかと言えば、彼女自身がそう語っているように、それは”死”なのでありました。では”死”とは何なのかと考えると、それは生との断絶であり、一見すると生と対立する概念であるようにも思えます。
 しかし、シナリオを進めていくうちに、”死”というものが必ずしも生を終わらせるものではないという考え方が見えてきます。このあたりの設定は複雑で解釈の余地がある部分かと思いますが、私は「ノルウェイの森」の有名な一説を思い出していました。曰く「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」
 母親の死によって世界との繋がりを絶たれてしまったかに見えたノラに、少しづつ希望が見えてきます。それはパトリシアを中心に取り巻くドタバタコメディの中でネタのように扱われていた”命の魔導書”の話です。作中でこれが”魔法”として捉えられていたのは、子を成すという行為が無から有を生み出す手段に喩えられていたからなのでしょう。これを算術という節理と比較して「1足す1が3になることだってある」と叫ぶパトリシアのセリフに、私はゴダールの映画「ワン・プラス・ワン」を思い出したものであります。
 死と生を繰り返す中で醸成される数字以上の何かに、人生の営みの本質がある。生と死は足し引きでは測れないのだと。それを知らしめる最大の仕掛けこそが、ナレーターの存在なのでした。この情報の開示によって、物語の中でノラとその母親が今でも繋がっているのだということが明確に示されるわけです。
 このナレーションは奇抜な手法として賛否両論ある様子ですが、寄る辺なく生きる主人公を掬い上げる、計算され尽くした叙述トリックであったと私は感じました。
 2ではどうするのだろうかと疑問で仕方なかったのですが、”死”の対極として見出された”忘却”をテーマに据え、母親の存在を”養母”という概念を用いて全く別の形でトリックにしてきたのには舌を巻きました。
 そして挙句の果てはノブチナルート。極道の家というのは米国では”ファミリー”と呼ばれる位ですから、実はこの作品のテーマと滅茶苦茶親和性の強い設定だったということに、遅ればせながら気付かせられた感じです。
 家族との断絶はすなわち他者との断絶であり、世界との断絶であったのでありました。そして断絶とは”死”という概念で説明付けられるのが一般的なのであります。しかしこれを逆算するように、死が断絶でないのであれば、世界と断絶していないのだから、他者とも断絶していないのだ、つまりは家族との繋がりは生きているのだ、というお話の展開だったわけです。そして、家族との繋がりが回復することによって、恋人という他者との繋がりを得ることができ、自ら親として子を成し家族という世界を再構築することができるようになるのです。

 さて、既に長々と語っていますが、最後にもう一つ述べたいことがあります。それは登場人物たちの名前についてです。2の本編中でも少し言及されていたのですが、本作の登場人物の中で冥界メンバーや天界出身(?)のシャチを除外すると、ほぼ全員の名前に「田」という文字が含まれているのはなぜか、ということです。
 ただ一人明日香にだけは含まれていないのですが、”明”という文字はもはやほぼ”田”と言えるだろうということで許してください(笑)。それは冗談としても、全員とは言わないまでも6人中5人の名前に同じ文字の形が含まれている(未知パイは黒の上の部分)のは偶然とは考え難いですよね、というところで考察してみました。
 結論を言ってしまえば”田”とは次世代へと受け継いでいく”資産”であり、その家系が歴々と積み上げてきた”伝統”そのものであるのだろう、ということです。田は一反二反と数えますから、主人公の名前が”反田”であるのは、”アンチ伝統”(野良と同意)であると同時に伝統そのものを引き継ぐ名でもあるという、二律背反なダブルミーニングなのではないかと考えられます。
 ”田”という文字は古来より人間の生活と密接な関係にあったため、文字の中でも古くから記録に残っているものであり、また名前に含まれる文字としてもトップクラスに多いそうです。(wiki調べ)
 つまり、はみ出し者ばかりが集まり多様性のるつぼと言えるような反田家の塾生達も、そうは見えずとも少なからず伝統というものを受け継いで生きているのだ、ということです。それはノラ母の教えだったのでしょう。どんな人間も、親なくしては産まれることはできないのですから。
 
 多様性が肯定される現代において失われつつある日本人という総体としての国民性。それは例えばモンスターペアレンツであるとか、周囲に合わせるということを知らない新入社員であるとか、様々な形によって社会に表出してきているように思います。しかしそれを物語に投影しようと企んだとして、こうまで無茶苦茶な世界観、登場人物達をひとつの作品の形にできるかといえば、それは極めて難しいと言わざるを得ないでしょう。それが、「ノラとと」は凄いなぁと感じ入るところなのであります。きっとひとつ間違えれば無秩序になってしまい、それはすなわち物語の破綻を意味します。それを避けられているのはやはり、この物語に”芯”のようなものがあるからなのではないでしょうか。
 どんなに世界との関係が薄れて見えようとも、社会に孤独死する人が増えようとも、それでも人は必ずどこかで他者と繋がっているものであり、それは未来を生きる希望になり得るのだと、そんな気構えを私は「ノラとと」を通して自覚させられたのでありました。


ではまたノシ


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