足をたがいちがいに前に出してなんとなく進んじゃおう

Twitter大好き芸人(芸人ではない)としてここまでやってきたのだけれども、最近はTwitterでしか得られない栄養素(例えば本稿タイトル元の画像ツイートとか)による回復量を、受けるダメージの方が上回りつつあり、そういうものとは無縁な言葉をばら撒くことで世の中の均衡を保とうとしている。戦争をなくすような大逸れたことじゃない。だけどちょっとそれもあるよな。

怒りのピークというものは6秒しか継続しないらしく、結局それは嘘だったと言われているけれど(この構図が既に地獄の入り口然としてしまっているのだが)、それはともかく、「あれだけ騒いでいたのに30日後にはもう何事もなかったかのように知らん顔をしている」という指摘をする人が時々目の前を通り過ぎていくことがあり、それに対しては毎回「そりゃそうだろ」と思うのだった。キープできるボトルの量には限界がある。下戸だからそもそも無縁だけれど。こんなにもあらゆることがままならないのだとしたら、「疑い続けることにも、議論し続けることにも疲れ果ててしまったから、全部なんかいい感じにしてくれよ、シビュラシステム~」という気分にもなろうというものである。

劇場版サイコパスの感想がぼちぼち放流されると思うので、よければ聴いてください。

京都市営地下鉄烏丸線「四条駅」及び阪急「烏丸駅」から阪急「河原町駅」へと続く地下道には、Appleの広告がかなりのサイズ感で迫ってくる区域があり、毎回その溢れんばかりの自信を浴びせられながら通り過ぎていくことになる。広告から発せられるメッセージは「新しい色が出たよ」くらいのもので、今日日、新色が出たからといってそこまではしゃげるものだろうか、と思う。そんなものは、そちらの匙加減じゃないか。iPhoneユーザではないから、そもそも広告のターゲットではないのだけれど。ただ、その強靭なメンタルは見習うべき点がありそうな気がしていて、「私は今新しい靴を履いているぞ」みたいなことを一大広告として心に掲げながら闊歩するくらいで、存外、日々をやり過ごすにはちょうど良いのかもしれない。

たまたま見かけた何かの告知ポスターに「ダンス・ダンス・ダンス」という文字列があり、なんとなく「ダンス」という言葉は重ねてもいいものなんだな、という認識があることに気づいて、理由はわからないけれど少し嬉しくなった。検索してみると村上春樹が上位に表示されるけれど、「曲」とつけるとそれなりの数がさらに浮上する。「ダンス・ダンス・ダダ」や「ダンス・ダンス・ダンスール」もその系譜と言えるだろう。「ばいきんまんのダンス!ダンス!!ダンス!!!」に至っては、重ねる度に明確にテンションが上がっている。以前に「繰り返しのフレーズ云々」という文章を書いたけれど、なんというか、こういう「言葉の重ね掛けによるバフ」みたいなものが垣間見えるのが好きなのかもしれない、と思った。「日本刀のごとく突き刺す深く深く深く」とかも好きだし。(今思ったけれど、日本刀ってそんなに突き刺さないよな。涅マユリか? 「"痛み"は毛程も消えない訳だヨ」)座右の銘みたいに、重ね掛けするとバフがかかる言葉を装備して過ごしたい。ささやき - いのり - えいしょう - ねんじろ!

頭の片隅に留めておいたものを吐き出してみたけれど、その過程がデトックスじみていて、冒頭のダメージが軽減されて今ここに至っている。今さらながら、これだったんだな。私にとってのストレス対処法というやつは。

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