大人になれない僕らの浅知恵

年末に強制的にレベルアップさせられ、年を跨ぐことで否が応でもリセットボタンを押されることになる。そんな誕生日と年越しを幾度となく繰り返してきたからなのか、一向に大人というものになれないままにここまで来てしまった。かつて想像が及んでいた年齢はとうに過ぎ、バグで指定エリア外に出てしまったような漠然とした不安定さだけが辺りに漂っている。DQNなりたい、40代で死にたい。うそですごめん。

新年明けましておめでとうございます。三が日と世間的な三連休は労働に勤しんでいたけれど、テレビに映る薄らぼんやりとした正月番組と、成人式を取り巻くニュースでなんとか季節感をつかみ取ることができていた。みなさん、人間卒業おめでとう。たとえゆるい幸せがだらっと続いたとしても、それで満たされたふうな恰好だけの大人にはならねぇでください。うそですごめん。なってもいいよ。

先人たちから行く先々で浴びせられてきた脅しのようなものは今のところまったく実感できていないので、なおさら後を行く人たちに掛ける言葉など持ち合わせていないのだけれど、振り返ってみるに、いつの頃からか「子どもの浅知恵」を思い知らされることがなくなっていたように思う。失敗のリカバリーや、工程の工夫が思いの外うまくいく。子どもの時分というのは、取るに足らないその場の思い付きではどうにもならないことばっかりだったので、そうして曲りなりにも持ち得る手段でどうにかなったときは、未だに新鮮に驚いている。だから、まぁ、どんな形であれ、生きてさえいれば、無駄なことなんてないのだろうね、たぶん。

『ケイコ  目を澄ませて』を観てきた。『マイ・ブロークン・マリコ』を観たときに確か予告が流れていて、その後いろいろと評判を目にしたので、「ああ、あのときの」といった気分だった。京都ではアップリンクと出町座でしか上映していないようだったけれど、そういう環境で観たい気分でもあったかもしれない。「日本最古のジム」とはきっと相性が良い。

それだけですべて伝わりそうなタイトルが良い。あとはその祈りに気持ちが追いつくだけなので。こちらが無意識に選んでいる手段にアクセスできない閉塞感を横において、等しく日々は過ぎていく。やっぱりコミュニケーションの話だから、ボクシングもコミュニケーションだったのだろうな。あのミット打ちが成立するまでに流れた時間とやり取りを想像している。一方で、どんどんままならなくなっていく会長の状態は、今の自分にはあまりにもリアルに感じ取れてしまうので、旅行になんか行けないことはなんとなくわかっていた。だから、これは、そういう「制限」の話でもあって、師弟でもあり親子とも感じられるような二人が共にしている時間が一番好きだったかもしれない。ケイコはたぶん、ボクシングを続けるのだろうね。もしからしら、会長は奇跡の復活を遂げて周囲を驚かせるかもしれない。互いに、「それでも」、と、背中を押し合ったように見えた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?