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男女平等プライドへの贖罪

「もしかするとわたしがこだわってきたプライドは間違っていたかもしれない」
最近そう思うことがあり、そのまだ消化しきれない思いを吐き出したくてこのnoteを書きます。テーマは「平等」についてです。

大学も就活も仕事も。男女って平等でしょ。

これまでの人生、大学受験も就活も。性別に関わりなく同じ指標で評価されてきた。(大学なら点数、就活なら(今となっては分からないけど)これまでの経験や人間力)
会社に入社してからも、基本的に与えられる仕事や求められる成果について性別で差がついたことはなかったと思っている。お給料も総合職社員は全員同じ初任給でスタートし、そこからの開きは実績や努力、運次第で生まれる差だ。
わたし自身も「女性だから」といって何か考慮してもらうことを望んでこなかったし、とにかく若いうちに成長したかったので、深夜残業もなんなら率先して行ってきた。
と、こんな感じで生きてきたので「男女って平等だよね」と本気で思ってきた。
最近になって「生理」が社会的にもフォーカスされるようになり、女性が普段から背負っているディスアドバンテージについて言及されるようにもなってきた。しかし当時の自分は「生理くらい薬飲めば全然無視できる」くらいにしか思っていなかったし、年上の女性的な先輩が「今日は気圧の都合で体調が悪いから仕事できない…。」と主張しているのを聞くと、「そんな弱音、ずるくない?」などと思っていた。こう思わせてきた背景には「男女は平等にできるはずである」というわたしの思想が影響していたと思う。

どう考えても平等とは言えない…妊娠という現象

結婚してもその平等思想は基本的には変わらなかった。当時同じ職場に勤めていた夫とは給与は年次分の差しかなかったから「稼げる能力」も同等。
だからこそ、家事も半分こ、共有口座にいれる額も半分こ。そうすることに納得感があったし、何より男女平等論者であるわたしには「半分こ」であることが誇らしかった。
その後私が起業して夫との給与格差はめっちゃ広がったけど、わたしの例のプライドもあり、家事もお金も「半分こ」の関係を続けてきた。
そんなわたしがはじめて「あ、これはもうちょっと平等とか言ってられなくない…?」と思わされたのが妊娠である。妊娠発覚後2ヶ月近く、つわりで自分のペースで働くことができなかった。初めて「半分こ」できない女性だけの役割を背負い、「平等でありたい、あれる」という自分の思いを考え直さざるをえなくなった。
その後もどんどんお腹は大きくなり、この先は出産、子育てが発生する。夫は育児にコミットする意欲もあるし、ワンオペは回避するつもりだけど、どうしても女性側の負担が大きくなることは必然だ。(出産は女性しかできないし、母乳は女性からしか出ないので)
そうなると育児のこと、家事のこと、お金のこと今後はどう折り合いをつけていけばいいのか。「半分こ」ロジックが使えなくなった今、新しいロジックを再構築するにもその妥当性をどう作っていくのか、わたしはすっかり迷子になってしまった。

目をつぶってきたいろんなこと。「平等」という名の多様性否定

今こうして葛藤し迷子になっているのも「平等であることが良い」とするわたし自身の思いが強すぎていたからだと思う。
でもよくよく考えれば、平等を主張したいがゆえに目をつむってきたことはたくさんあった。生理のこと、体調のこと、メイクのこと、体力のこと。ほんとはいろんな差は妊娠以前からあって当然だったのに、見えないように、見ないようにしてきたのである。もっと言えば男女という性別に関わらず、すべての人に個性があって、体調も、体力も、能力も価値観も人によって違う。それなのに、わたしが前に、気圧による体調不良を主張した女性の先輩に「そんなの弱音じゃん」と否定してしまったように、平等でありたいという願望は、あらゆる多様性さえも否定してしまってきたのだ
評価や責任やチャンスが等しくあるという意味での「平等」と、根本的に人はぞれぞれ違うと認めた上で、対等に接するという「平等」は似て非なるものだ。そんなことに妊娠をすることでやっと気づいたのだ。
後者の『根本的に人はぞれぞれ違うと認めた上で、対等に接するという「平等」』をどう実現すればいいのかについては、まだわたしの中にも結論がでていない。ただ、これまでの間違った男女平等プライドは反省し、新しいあり方を築いていきたいと思う。

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