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朝(あした)には紅顔ありて、夕(ゆうべ)には白骨となれる身なり

 私は広島で生まれ育った。広島では「安芸門徒」といって、浄土真宗西本願寺派のお寺がとても多い。法事に来るお坊さんもみな浄土真宗のお坊さんだった。
 そういった環境だったので、私が初めて仏教に関心を寄せた時、勉強を始めたのは浄土真宗だった。

 浄土真宗関係の本を読んでいるうちに、蓮如上人という「浄土真宗中興の祖」と呼ばれる人が書いた『御文』(『御文章』)という文章に心惹かれた。
 これは蓮如上人が教義を消息(手紙)の形で分かりやすく説いたもので、古語で書かれていながら今の私たちが読んでも意味が分かりやすい、平易な文章で書かれている。
 その中に「白骨の御文(御文章)」と呼ばれるものがあり、私はそれが特に気に入り、当時は暗唱できるほど何度も読んだ。以下に引用する。

それ人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おおよそ儚きものは、この世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり。

されば、いまだ萬歳の人身をうけたりという事を聞かず。一生すぎやすし。今に至りて誰か百年の形体を保つべきや。我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず、遅れ先立つ人は、元のしずく、末の露より繁しと言えり。

されば、朝には紅顔ありて夕には白骨となれる身なり。すでに無常の風きたりぬれば、即ち二つの眼たちまちに閉じ、一つの息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて、桃李の装いを失いぬるときは、六親眷属あつまりて嘆き悲しめども、さらにその甲斐あるべからず。

さてしもあるべき事ならねばとて、野外に送りて夜半の煙となし果てぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。あわれといふも、なかなか疎かなり。されば、人間の儚き事は、老少不定のさかいなれば、誰の人も早く後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深く頼み参らせて、念仏申すべきものなり。 あなかしこ、あなかしこ

白骨の御文

 この文章を知った時、教わったお坊さんに話されたのか、読んだ本に書いてあったのか忘れたが、以下の逸話もセットで聞いた。

 "昔、あるところに女の子がいた。とても可愛く、愛嬌があり、誰からも愛される子だった。親もその子を溺愛していた。
 しかしあるとき、事故で幼くして死んでしまった。
 親族も集落の人も多いに嘆き悲しんだが、泣いたところで死んだ子は帰ってこない。
 仕方なく葬儀をし、荼毘に付した。そしてその子の白骨だけが残った。
 朝にはあんなに元気で血色のいい顔だったのに、今は白骨が残るだけ。
 人の一生はなんと儚いことだろうか。"

 なぜか当時の私はこの文章が逸話と共に非常に心に残り、「俺もいつ死ぬか分からないんだ。今日死ぬか、明日死ぬか分からない不安定な命なんだ」と心に刻まれた。


 eスポーツキャスターのなないさんが8月9日に亡くなったという訃報に接した。

 なないさんはTRPG配信でも何度かお見掛けしていて、配信も時々拝見していたのでとても驚いた。そして、この訃報に接した時に真っ先に浮かんだのが上記の白骨の御文の一節の「朝には紅顔ありて夕には白骨となれる身なり」だ。私より年若い人の訃報に接し、人の生き死にには老いた者が先、若い者が後、という決まりは無いのだと改めて思い知らされた。


 人がいつ死ぬか分からないということは当然、私もいつ死ぬか分からないということだ。「いつかやればいいや」でその「いつか」が来ないまま終わるかもしれない。できないことは仕方がないが、できることはできる内に手を付けた方が良いだろう。死んだ後は出来ないのだから。

 また、人がいつ死ぬか分からないということは、私の親しい人にも当てはまる。
 今日会った友人と次に会える機会がないかもしれない。今一緒にいる家族と明日を迎えられる保証はない。そう考えた時、その友人や家族との交わりが今の私の態度で良いのか?というのは考えるべきかもしれない。
 相手にいい加減に接していないか。相手との時間を漫然と過ごしていないか。相手の気持ちにちゃんと向き合えていたか。
 「最後にあいつと会った時、こうすればよかった…」という後悔は辛い。

 愚かな私は、普段は自分がいつ死ぬか分からない身であることを忘れ呆けて生きている。明日も生きている、明後日も生きている、と思い込んでいる。そして自分と関わりのある人の訃報に接した時、ハッと気づかされる。いつ死ぬか分からないのだと思い出す。しかしまた忘れてしまう。その繰り返し。
 



 実際に会った方ではないですが、関心があり、私より若いなないさんの訃報に接し、改めて人の一生の儚さを思い出させていただきました。
 なないさんのご冥福をお祈りいたします。