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中国語記事ザッピング:病中吟1



プロローグ:「病中吟」は劉天華のテーマソング

こんにちは。セバスチヤンです。
劉天華の曲は?と聞くと、良宵、光明行、月夜、燭影揺紅、空山鳥語あたりがすぐに答えとして帰ってくるでしょうか?
二胡の楽曲としては劉天華は10曲しか作ってないので上記だけでも既に半分押さえていることになりますが。
でも真っ先に病中吟という曲を上げる人はなかなかいないでしょう。
私もそうでした。この曲の存在は勿論知っていましたが、何というかイマイチ地味というか取っつきにくいというか。
病中吟は劉天華の記念すべき第一作目、デビュー作なのですが、それだけではなく、劉天華にとって一番思い入れがあり(注)、彼の人生そのもの、まさに劉天華のテーマソングとでもいうべき存在なのです。
彼の半生を描いた映画「劉天華」が2000年に中国で製作され公開されています。その映画の中でも冒頭劉天華(役の陳軍さん)の病中吟のソロ演奏でスタートし、エンディングもこの曲。映画の要所要所でも病中吟が流れます。
という訳で、今回は、この地味だけど実は知る人ぞ知る劉天華のテーマソング、「病中吟」にスポットライトを当てて掘り下げてみたいと思います。

注記:病中吟が劉天華本人にとっても一番のお気に入りである、という旨は後で紹介する記事ー劉天華のお弟子さん沈仲章さんの息子さん、沈亜明さんのお父さんとの回顧録ーにその記載があります。

病中吟に関するセバスチヤンの3つの疑問

劉天華に関する日本語の記事は結構見かけますね。生い立ちなどもかなり細かく記載されているページもありました。
このエッセイでは、いつものように中国語のネット記事を中心に得た情報をご紹介していきます。下記の3つの疑問についての回答を探っていく、という形で書き進めたいと思います。

疑問1:本当にデビュー曲?製作年代の謎
疑問2:病中吟の病とはいったい何の病?
疑問3:民族音楽改革は何故必要?

今回は前回にもまして長文になりそうなので、2回に分けてエッセイを書いていきます。

まずは劉天華の基本情報

上記の疑問の答えを探るために必要な前提知識となりますので、箇条書きで記載します。各々を細かく知りたい方は是非ググってみてください。日本語で結構ヒットします。以下の情報源はWikipedia中国語版と百度です。

・劉天華の父は教育者、自分で学校を開設し、子供たちもそこで学んだ
・劉天華は3兄弟の2番目。4つ離れた兄、劉半農は文学者、8つ離れた弟、劉北茂は音楽家として大成した
・劉天華は37歳という若さで伝染病にかかり急死
・生涯で10曲の二胡曲、3曲の琵琶曲、1曲の合奏曲、47曲の二胡練習曲、そして15曲の琵琶練習曲を作曲。

そして年表。大きく4つのフェーズに分類しました。この後の話に大きく影響しますので話を読み進めて、またここに確認に戻ってきてくださいね。

フェーズ1:幼少期を過ごした地元江陰
・中学時代は学校の楽隊に参加、トランペットとフルートに没頭する
・1911年辛亥革命がはじまると学校は閉鎖、楽隊で演奏できなくなったため、地元の革命軍楽隊に参加。

フェーズ2:様々な音楽に触れた上海
・1912年、17歳の時に兄に連れられて上海へ上京、劇団に就職。楽隊員として活動。この時に余暇でバイオリンや西洋音楽の作曲理論などを学ぶ。 
・1914年、わずか2年で劇団が解散、職を失い地元へ帰郷。地元の中学校で音楽教師として働き始めるも半年で解雇

フェーズ3:人生の転機の連続、出戻りの江陰
・1915年、20歳の時に父が他界
・1916年、21歳の時に幼馴染みと結婚
・1917年、二胡と琵琶を本格的に先生について習い始める(~1922年)

フェーズ4:音楽家として大輪の花を咲かせた北京
・1922年、北京大学附設の音楽講習所に琵琶の講師として就任
・1927年、五四運動の激化により音楽講習所の閉鎖が決まり大学を解雇される。 北京女子師範高校他で音楽教師として働き始めると同時に、かつての教え子も加えて国楽改進社 を結成。国楽(民族音楽)改革を始める
・1932年、猩紅熱にかかり37歳の若さで逝去

本当にデビュー曲?製作年代の謎~進化する曲

冒頭に書いた疑惑1から入ります。病中吟と言う曲は一体いつできた曲なのか。この記事が興味深いです。
https://www.huain.com/article/erhu/2022/0527/942.html

この記事の著者が調べただけで1913年、1915年、1918年、1923年、1924年と5つの説があるそうです。これは後に出版された楽譜集などで病中吟の作曲年代がクレジットされているようですが、各楽譜により記載年代がマチマチであることが原因だそうです。
歴史的事実として確かなのは、1928年に劉天華が率いていた国楽改進社が開いた第一回演奏会のプログラムが残っており、そこに演奏曲目として「病中吟」があったそうです。
これがこの曲が完成された曲として確実に存在したとわかる最も古い年だそうです。ちなみにこの時のプログラムは二胡だけでなく他の民族楽器もあったそうですが、二胡の曲として演奏されたのは月夜、病中吟、悲歌、の3曲だったそうです。そして病中吟と悲歌は劉天華本人による独奏だったようです。これがおそらく最初に一般民衆に公開された病中吟だと記事では紹介されています。残念ながら演奏の録音などは残ってないようです。
目に見える形で残っているのは1930年に出版された「国楽雑誌第8号」に掲載された楽譜だそうで、そこには1913年江陰にて初稿と記載があったそうです。記事にも書かれていますが、この記載は実は誤記ではないかと筆者は見ているようで、先の年表から見ても1913年は上海期ですし(江陰ではない)、人生の挫折を味わう(病中吟のテーマともなる出来事が起こるのは)むしろその後の江陰期なので、1915年あたりが正しいような気もします。いずれにしても主題となるメロディは、1913年に構想としてできたとしても、その後劉天華自身の二胡の技術、音楽の知識の増加に伴って、あるいは演奏しながら色々な変更を重ねて、最終版となったのが1928年もしくは1930年ではないか、というのがこの記事の筆者の推測です。
つまり病中吟という曲自体がこの15年近くの間で進化していったのですね。各楽譜で年代の記載が違うのは、その楽譜を編集した方(劉天華はその時は既に他界)の解釈の違いによるものでしょうか。

作曲時期に関する別のアプローチ

先の記事に面白い記載があります。<劉天華全集>という本の記載によると、劉天華は1915年に初めて二胡を弾いたそうです。失業し、父親が他界した憂さを晴らすために、街中で前から興味があった竹筒製の粗末な二胡を二角という安価で買ってきて、日々独学で弾いていたそうです。結婚した当初奥様はギーギーと下手くそな音をいつも聞かされて本当に嫌だった、と言っていたそうです。その後二胡を本格的に先生について習い始めるのが1917年からなので、いくら音楽の才能があるからとは言え、1915年に二胡曲として完成されたものができたとは考えにくいですね。
やはり主題となるメロディーはこの頃に思いつき、二胡曲として徐々に熟成されていったと考えるのが合点がいきます。

もう1つ面白い記事があります。劉天華の二胡曲で病中吟以外の曲を作曲年代別に並べると古い順から下表のようになります。

1928年までに作曲された最初の6曲はD調、7曲目の光明行はD調とG調、晩年の2曲はG調です。劉天華の音楽に対する偉業の1つとして、定弦を固定した(内弦D,外弦A)というのがあります。その場合、内弦の開放弦をドとするD調で曲を作るというのが自然です。
その後、音楽の実験として(西洋の要素を取り入れるために)、光明行では転調を、その後の曲では別の調を、というのは自然な流れかと思います。

では病中吟は・・・
G調なんですね。なので、最初に完成された曲だとしたら、いきなりG調だったとは考えにくいです。初稿の段階ではD調、そして、最後に完成版となった時にG調になったと考えるのが自然です。やはり、この曲は進化しているんです。

疑問1の結び

劉天華本人が1928年に公開演奏した、という話は先に書きました。その時の録音は残ってないと書きましたが、実は1931年にオデオン社により新たに劉天華本人による演奏がレコーディングされているんです!
二胡曲2曲と琵琶曲2曲。
二胡曲で収録されたのは、病中吟と空山鳥語。
この段階では他にも曲が完成していたと思われますが、あえて病中吟を選んだのは、上述したように15年という年月をかけて進化をたどった曲なので本人の思いがたくさんこもっている曲だからなのではないか、とこれはセバスチの勝手な憶測。ネットでもこちらで聞けます。
https://www.youtube.com/watch?v=59q6bMGfuHo

今回はここで一旦切ります。
次回は、いよいよなぜこの曲が劉天華のテーマソングなのか核心に迫っていきます。お楽しみに。
長文にお付き合いいただきありがとうございました。セバスチヤンでした。

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