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読書「量」というものは信じてないけど、読書は楽しいという話

宇多田ヒカルのライブの質問コーナーで「思いを伝えるのが下手です、どうしたらいいですか?」という問いへの答えが真理すぎる

「〜が真理すぎる」という言い方に、うっすらと嫌な予感を覚えつつこんな記事を読んだ。

 私は「読書量」について以下のように思っている。
(※途中から自分語りになるから気をつけろ!)

・素敵な伝え方をできる人、素敵な生き方をする人は読書量が多い→そういうことはある
・読書量が多い人は素敵な伝え方をでき、素敵な生き方ができる→そうとは限らない

である。

そして、
読書量(頁数、冊数)でマウントをとるひと、戦ってしまう人→私はだいたい素敵だと思わないことが多い。
(これは今回の話とは別なので割愛)

 もちろん、いろんな本を比較して的確に論じるのは、同じジャンルの本をたくさん読んだ人しかできないことだ。
 本を読んでいないとできないこともたくさんある。同じ本について感想を語ることは、同じ本を読んでいないとできない。

 でも、「思いを伝えることが上手になりたい」となると、それのために本を読む……? はあまりぴんと来なかった。

 個人的な話になるが、私が「最近はほとんど読まない、読むのはホラーと怪談、たまにミステリ」であることが原因かもしれない。
 あとは、一時期「物語の作り方」的な本を読みすぎて、いろいろな(本に限らず映画やドラマなども)物語において
「これが主人公に(作者から物語のために)課される試練かあ」
「ああ、キャラの説明が説明してなくてうまいなー」
とか、そういう物語には関係ない、余計で膨大な情報によって物語にまったく集中できず、楽しむのが下手な人間になってしまっているからかもしれない。(「その物語を楽しむ」ためには邪魔に感じるので、元の物語を楽しめていた昔に戻るか、上手にオンオフしたい)

 どんな、自分のための本を読むか?
 どんなことがその本で素敵だったか?
 それを丁寧にアウトプットできるか?
など、読書量がその人を素敵にするにはいくつものハードルがあるように思った。(もちろん、件の答えが悩みを解決するためのルートのひとつである可能性を秘めているのは確かなのだけど)

 とはいえ、以上は「どんな伝え方が素敵か」をそもそもこの問題を聞かれてもいない私の主観である。
 語彙はないよりあった方がいいだろうし(知識というものはあって困るものではない)、本を読むのが趣味な人にとって、本を読むというのは代え難い幸福だ。面白い本の頁を繰っているときの気持ちは、世界が広がっていくような感覚を覚える。

 こんなことを書いている私は、現在本を上手に読めない。昔は読むのが好きで、楽しかったのでまた読めるように戻りたい。
 たくさん読んでいる人は単純にすごいなあ、と思うし、うらやましくもある。
 けれど、無理して読む本の中に幸福も、おそらく「伝え方が上手になる種」もない。
 結局、早く読めるようになるといいですね! と自分に言うしかない状態なので、……早く読めるようになるといいですね!

 結果として、私は本を読んだ量(や、映画を見た量、音楽を聞いた量)を、あまり単純にその人の他の能力的なものとつなげないで考えたいと思っている。
 (関連する職業でなく)楽しむ以外の理由で読書をするのは幸せでないことも多いと思う。

 読書はハッピーな出会いであってほしいな、と思うのでした。


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