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共感と思いやりの違い

共感と思いやり(コンパッション)、この違いをしばしば尋ねられるので、今日はそのことについて、共感疲労のお話からしてみたいと思います。
(AIに翻訳をお願いしても、両者はよく混同されます)

共感とは相手と同じ感情を持つことです。相手が悲しければ自分も同じように悲しく、相手が喜べば自分も同じように喜びます。

ここ十数年で共感疲労という言葉をよく耳にするようになりました。これは相手の辛い状況や苦しみに共感しすぎて、自分自身の心が疲れてしまう状態のことを言います。
医療や福祉の分野でお仕事している方や、心理カウンセラーなど、他人の苦しみやトラウマに直面し続ける職業においてよく見られる現象ですが、感受性の高い方は、そういった職業に就いていなくても、そのような状態になりやすいと言われています。
共感疲労から、メンタルが疲労するだけでなく体調まで崩す場合があり、また共感疲労を起こさない様に、その原因となりそうなものを排除や回避しようと日々努力をされているかもしれません。

ではなぜ共感することが疲労に繋がる場合があるのでしょう。
共感疲労の背後にあるメカニズムは、他人の痛みや苦しみに深く共感し、その感情を自分のものとして感じることにあります。しかし、その苦しみに対して実際に何か有意義なことを行うことができないと感じた場合、その無力感はストレスや疲労を引き起こす原因となります。
苦しんでいる相手を見ても、自分には何もできない、どうすることもできない、そう思うことでより疲れてしまうわけです。

さてそこで思いやり(コンパッション)に注目してみます。
思いやりは、相手の苦しみに気づくだけでなく、それを和らげようとする行動を伴います。
たとえささやかな行動でも、自分にできることは限られたことであることを認め(必要であればそんな自分を許し)、自分にできることをします。
意識の焦点は、相手の苦しみを和らげる方法にあります。
この時大切なのは、誰かに思いやりを向けるのに、知恵(理性の時もあります)が必要だということです。自分が泳げないのに、溺れている人は助けられません。感情に飲み込まれ、咄嗟に水の中に飛び込むのではなく、知恵や理性を使い、助けを呼ぶことや、しかるべきところに通報することを選択します。

大切な人が辛い状況にあってその人の苦しみが自分の事のようにわかる、感じるのに何もできないと思うと無力感でいっぱいになります。
それがあまりも苦しくてその人と距離を置いてしまうと、今度は罪悪感から心が囚われてしまったり、相手も強く共感している自分のことを知らないまま心細さを感じるかもしれません。
そんな時、もし可能なら自分にできることとできないことがあることを受け入れ、許したうえで、相手に気にかけていることを伝えたり、何か自分にできそうなことはないか尋ねるなど、共感から思いやりにシフトしてみます。

共感と思いやり(コンパッション)の、最も大きな違いは『行動』にあります。
どんな小さなことでも、苦しみを和らげる行動は、自分にとっても相手にとってもきっと良いはずです。

<ご参考>
チャールズ・フィグレーは、1995年に共感疲労(compassion fatigue)という概念を提唱しました。共感疲労は、他人の苦しみやトラウマに深く共感することによって生じる、精神的な疲労やストレスの状態を指します。後半で説明した思いやり(compassion)は、同じcompassionで紛らわしいかもしれませんが、こちらの「compassion」は、積極的なサポートや援助の意志を含んでいるため、共感疲労とは異なる概念です。


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