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「言語化せよ」という言説は、私たちに何をもたらしているのか

ここ数年でよく聞くようになった言葉の1つに「言語化」がある。「言語化」について調べてみたが明確な定義を見つけられなかったので、ここでは「自分の伝えたいことを、自分の言葉を使って表現すること」とする。

「言語化」という言葉の台頭

「言語化」という言葉がこんなにも日本で語られるようになった背景は、複数のことがあるのだと思う。日本の(若干過剰とも思える)デザイン思考への期待や、デザイン経営宣言などからビジネス界でのデザイナーの立ち位置に変化が見られ、デザインを言語で表現することが求められるようになってきたこと。スマホの台頭でいつでも色々な情報が触れられるようになり、「自分の考え」なのか「他者の考え」なのかの区別がつかなくなってきたこと。それでも自分が「何かをしたい」と思ったら「自分の言葉で伝える」ことが求められること。他にもまだまだあると思う。

「語りを豊かにする」とは何なのか

私は「言葉」がとても好きだ。仕事の中で絵を描きながら話すこと多いが、これは互いの語りを豊かにするために描いている。この時の「豊かさ」とは、「試行錯誤しながら“これは自分の、自分たちの言葉である”という自信をもった語りを獲得できること」と私自身は捉えている。そうした語りはその人を勇気づける。他者の言葉に勇気づけられる人も多いだろうが、自分から発せられる言葉はその人の行動の質を変える。覚悟が決まるのだろう。こういった語りを増やしていくことが、自分の大切な生業でもあるとも思っている。

「言語化せよ」という言説

一方で、私が思っているこの考えと「言語化せよ」という言説は、もしかしたら違うのではないかという不安がある。どこか「言語化している人は上、言語化していない人は下」という空気があるように私からは見えている。そして「言語化」のプロセスには何か無機質な冷たさや、孤立しながらデバイスに向かう苦行のように見えてしまう。それだと続けられる人が限られてしまうし、言語化すること自体が恐怖になってしまう可能性があるように思う。私たちはもっと違う「言語化への取り組み」を作っていくことはできないだろうか。

「温かなプロセスを踏んだ言語化」のために

これが全てではないと思ってはいるが、ふだん自分がやっている言語化プロセスを書き出しみる。

1.自分が考えていることを紙に書き出す。
2.1について相談できそうな人に「ちょっと壁打ち付き合ってもらえませんか」と聞いて、話を聞いてもらう。相手から見解ももらう。
3.1と2の情報を元に何かにまとめる。パワーポイントなどでもいいし、noteなどのブログでもいい。

ここで重要なのは2である。多くの人が1と3だけで言語化しようとしすぎなのではないか。他者に頼りながら言語化する。もし他者から「今壁打ちに付き合うのは難しい」と言われれば時期をずらす。もしくは別の人に依頼する。1人の他者に相談先を依存しないことも重要だし、依頼された側も安易に受け入れるのではなく今はそのキャパシティがないときはそれをちゃんと伝える方が互いにハッピーだと思う。

最後にタイトルに戻る。
「言語化せよ」という言説は、私たちに何をもたらしているか。

「言語化せよ」という言説は、私たちにもう一度人と人との関係性をどう紡ぐのかを考えるきっかけを作っている。
今の私はそんな風に思っている。


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