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道頓堀ミュージアム並木座と道頓堀界隈―歌舞伎と芸能の本場大阪をその痕跡と重ね合わせて見る最初の小さな旅(2)(2023年10月。写真中心)―

京都の南座にはかなり行ったが、大阪の松竹座では実は一回しか芝居を観たことがない。これまで大阪の難波近辺に行く時の大抵の目的は、日本橋の国立文楽劇場に行くことだった。(地元民でないのでつい「にほんばし」と言ってしまうが、「にっぽんばし」であるらしい。)
松竹座の辺りはいつも混んでいて、それに比べて文楽劇場の方は人があまりいないから、という事情もあったかも知れない。東京の歌舞伎座から特に築地(の裏通り)や新富町の方は何となく空いているし、先日から建て替えのため閉館している国立劇場の近辺も然り、また京都の南座の辺りも何となく人気がない。
横浜のごみごみした所に程近い場所で育ち、大学の時も西新宿などに住んでいたせいか、昔はごみごみした所の方が好きなような気がしていたが、四十歳になる少し前頃から甲府、そして盛岡という地方都市に住むようになり、嗜好が変わったのかも知れない。(と言うより、本当は「高齢化」したせいかも知れない。)
幸か不幸か(?)、今回は松竹座では歌舞伎はかかっておらず、文楽劇場でも人形浄瑠璃はやっていなかった。と言うか、その時期を敢えて狙って行ったわけだが、今回は両方とも前を素通りし、辺りをぶらぶらと目的もなく歩くことを、目的とした。
新大阪駅に近いホテルを出て、同じように地下鉄御堂筋線に乗り(ところが、地下鉄と言っても新大阪駅のホームは高架上にある)、難波までまっすぐ行けた。座れたが、梅田からはかなり混んだ。
難波駅を降りて七、八分歩くと、国立文楽劇場に出る。何時もならそのまま建物に入って受け付けに向かうが、今日は休館日となっていた。

難波方向から文楽劇場の建物を見る

休館日だが何本かの幟は立っていた。

国立文楽劇場の幟

上演予定の演目だろうか。

上演予定

いつもはこの正面ではなく、こっちから入っていたような気がする。

横手の出入り口

近付いて見る。舞踊観賞会や狂言など種々のジャンルが上演されるらしい。

上演予定

国立文楽劇場の建物は黒川紀章の設計になるものである。黒川紀章と言えば、昔テレビなどで見て、気障なイメージを持っていたが、実際にこの建物の中に入ると、素晴らしい建築家であることが分かった。
とにかく、すべての席から舞台が見やすい。それでいて傾斜がひどく急なわけでもない。座席も客席空間も、実際の寸法はどうか知らないが、何となく広々している。一番前の席などに座ると、本当にのびのびと見られる。また、ロビーも気取っているわけでもないが、品が良く、隣どうし客が座り合わせても、寛げる。この劇場に来るようになって、黒川紀章という建築家のイメージが変わった。
東京の国立劇場小劇場よりも、私にとっては数層倍良い。小劇場の方は、余程良い席に座らないと、とにかく人の頭が邪魔して舞台が隠れる。それに何より、混む。(『曽根崎心中』といった人気作がかかることが多いのも、その一つの理由かも知れない。大阪の方が、演目のバリエーションが大きいような気がする。今は衰えているとはいえ、さすが本場である。)
東京の国立劇場の建て替え計画が苦戦しているとの情報が伝わって来るが、しかし国家的財産を上演する誇りある劇場である。最後は国が、そのプライドにかけて、素晴らしい劇場を設計・建築してくれることを期待している。(その際、現在大劇場と比べると見劣りする小劇場の方も、黒川紀章デザインになる大阪の文楽劇場に負けないように、是非改善してほしいと思います。)

さて、文楽劇場の脇の道を道頓堀の通りの方へ向かう脇道に入ると、そこはラブホテルが立ち並んでいるような「場末」といった感じの所で、昼間なのでネオンもなく、人通りも少なく、近所に住む人やこれから仕事なのかも知れない男女が、コンビニで今はまだのんびりした感じで買い物をしているような、そんな風景が少しの間続いた。
私事で申し訳ないが、私は「横浜の下町」(観光客や、田園都市線の方に住んでいる横浜市民にはピンと来ないかも知れないが、中区とか南区辺りに住む人にはすぐピンとくるだろう)に程近い所で育ち、日の出町(野毛と言った方が通じるのか)や黄金町(「こがねちょう」と読む)の辺は電車で毎日のように通り、大きな本屋(有隣堂伊勢佐木町本店)や何軒もの古本屋があったので、近くを歩くことも多かった。近道するために裏通りを平気で歩いたりしていたが、ただ黄金町の京浜急行のガード下だけは怖かった。実際、怖い目にも遭った。道頓堀に程近い裏通りの一帯は、その辺りを昼間ぶらぶらしている時と同じような感じだった。(大阪地元民でないので、外れているかも知れませんが。)
さて、だんだん人通りが増えて来て、道頓堀の通りに出た。文楽劇場に近い方から通りに入ってすぐの所に、今日見たいと思っていた目標の建物があった。タイトル画像にも使ったが、別の写真を下に掲げる。

今日の最大目的

この小さな芝居小屋のような所が、実際に人形浄瑠璃も歌舞伎も見ない、今日の目的地の一つである。赤い服(実はある歌舞伎の衣裳)を着た方は、この芝居小屋の御主人である。道頓堀ミュージアム並木座と言う。
御主人に声を掛け、説明付きのコースを希望すると並木座の中に通してくれた。一階を入ると小さな部屋があり、文字通りミニシアターとなっている。奥は小さな舞台であり、その真ん中には実際に廻り舞台がある。出る時いただいたパンフレットに、平面図が出ていた。

ミニシアターの平面

ここでは、舞台奥のスクリーンに映る映像を観賞し、また『義経千本桜』の狐忠信に変装した御主人(写真に写る赤い服装がそれだ)のお話を伺い、質問をするのが主であったので、写真は殆ど撮らなかった。映像やお話の中で、幾つかの貴重な知識を授かった。舞台鑑賞が終わると、観光地等によくある、顔だけ出せる人型の装置で写真を撮って貰える。その歌舞伎の衣裳の顔出し装置は、どうも『菅原伝授手習鑑』における「寺子屋」の松王丸のように見えたが、聞きそびれた。(写真そのものはここには載せない。)ミニシアターの周囲の壁にはたくさんの写真や図面やポスターが貼ってある。一部を除き殆どは写真撮影を許可された。例えば、並木正三の図がある。

並木正三

初代並木正三は、『幼稚子敵討』、『宿無団七時雨傘』、『三十石艠始』等で知られる人形浄瑠璃、歌舞伎作者であるが、同時に廻り舞台をはじめとする斬新で普遍的な舞台装置の考案者でもあった。
並木という名前は、大作家並木宗輔(助。あるいは並木千柳)の系譜を引くいわば作者の「大名跡」であり、並木正三もはじめ並木宗輔に弟子入りしていた。並木座という名前は、ここから来ているのだろう。因みに、並木座の御主人は、「なみきしょうざ」と呼んでいた。
並木正三の詳しい説明がある。

並木正三概説

江戸時代、劇場街全盛期の道頓堀界隈の絵地図である。

道頓堀劇場街

大阪全体の地図もある。

大阪地図

場所と時間を重ね合わせた道頓堀界隈の興味深い地図があった。歴史の厚みを感じる。
この並木座の真向かいがかつて絡繰り芝居で有名な竹田であったことを御主人が教えて下さった。(今どうなっているのか? 後で写真で紹介する。)少し斜め向いがかの豊竹座跡地だ。外国人を含めた多くの人々が、そんなことには頓着なしに行き交っている。「トヨタケザ」って何?って感じだろうか。それはそれとして感慨深い。

時間/空間重ね合わせの地図

劇場街の絵もある。

道頓堀劇場街

見世物風出し物の舞台の絵もある。観客はいかにも楽しそうな感じである。

舞台と客席の情景

並木座の御主人から、パンフレット類をいただいた。

道頓堀ミュージアム並木座の小冊子

やはり名前の由来並木正三がフィーチャーされている。

初代並木正三と並木座

こんな感じで写真撮影をしてもらえる。

舞台、写真撮影

もう一つのお土産は、道頓堀マップである。

道頓堀マップの表紙

現在の道頓堀の地図であるが、かつての劇場・芝居小屋が記されている。

道頓堀と劇場街の痕跡

ブロードウェイより勿論ずっと古い。

演劇街としての道頓堀

並木座では、落語、能、ジャズ等、様々のライブやイベントが行われているらしい。羨ましい。

ライブ、イベントスケジュール
イベント案内

道頓堀ミュージアム並木座を後にする。

道頓堀ミュージアム並木座の正面

タピオカドリンクは飲まなかった(飲めたのだろうか?)『暫』の鎌倉権五郎か?(違っていたらすみません。)

道頓堀ミュージアム並木座・歌舞伎の見得

なぜかもう道を進まず、もう少し遠ざかる。

少し遠ざかった位置から見る

実は、ここは向いの駐車場である。

道頓堀ミュージアム並木座の真向かいの駐車場


実はここに、かつて竹田近江が作った絡繰り芝居で有名な竹田座があった。今は碑も何もなく、普通の駐車場となっている。この何の変哲もない駐車場の風景の向こう側に、人々のかつての賑わいが透けて見えて来る。

今はただの駐車場―浮かび上がる幻想の竹田からくり芝居(1)

駐車場を後にする。

今はただの駐車場―浮かび上がる幻想の竹田からくり芝居(2)

難波の方に向ってぶらぶら歩いて行く。こんな店があった。

道頓堀・愛之助

さらに歩いて行くと、このビルの前で、突然若いお兄さんに呼び止められ、30分きっかりで落語を聞いて行かないかと言う。聞く、と即答した。入り口はここである。

すぐに係の人が現れて、エスカレーターで地下一階に案内された。(この辺、ある種の「怪しい店」の感じと似ていなくもない。)

地下への入り口

降りるとすぐに受付があり、こう表示されていた。

ZAZA(1)

もう一枚。

ZAZA(2)

中に入ると、客席はざっと20か30位だが、ちゃんとしたミニ劇場だった。
昔、横浜に住んでいた頃(1990年代半ば過ぎまで)や甲府に住んでいた頃(2000年前後)は、歌舞伎や浄瑠璃からは一時離れて、そしてクラシック音楽からはほぼ永久に離れて、専らジャズのライブに熱中(と言うより熱狂)していたが、その頃は寧ろこの位の場こそが普通だった。
お客さんで席はほぼ三分の一から半分程度埋まっている。お客さんがいるので、写真を撮るのは遠慮した。その代わり、開演前の舞台の写真はある。

ZAZA落語の舞台(1)
ZAZA落語の舞台(2)
ZAZA落語の舞台(3)

私が聞かせていただいたのは、「本日の出演者」のうち三人目の旭堂一海さんと四人目あの桂弥壱さんだったと思う。
表で呼び止められた若いお兄さんが、実は旭堂一海さんだったことに、上演が始まってすぐ気付いた。
旭堂一海さんは実は落語ではなく講談の人だったが、枕(?)は殆ど落語風に進んで行き、途中から『源平盛衰記』の那須与一の挿話に入るのだが、そこから少しずつ講談調が強くなる。途中、歴代天皇のお名前を現在に至るまですべて羅列する等の芸を披露しながら、僅か15分程度で見事に一つの完結した物語を語った。
次の桂弥壱さんもそうだが、それぞれが僅か15分、合計で30分とは思えない濃密さで、終わってから時計を見たものだ。一時間あるいはそれ以上聞いていた気がしたが、本当にぴったり30分しか経っていなかった。これが芸というものか。
桂弥壱さんの方は、「天識気」(?)つまり「屁」を巡るどたばたの笑話であり、笑えた。
お二人の上演後、舞台挨拶(と言うより雑談)の場が設けられ、写真を撮ってZAZAの名前付きで拡散してください、とのことだったので、二枚程捉えて貰った。

向って左が旭一海さん、右が桂弥壱さん

一番手の旭一海さんの方は既に洋服に着替えていた。
もう一枚。

上演後の舞台

ZAZA落語で合計一時間弱楽しんだ後、再び外に出て、あの竹本座跡の碑を探したが、とうとう見つからなかった。
この辺だろうか? それとも場所を間違えたか?

竹本座はこの辺? 場所間違い?

探すのは今回は諦め、松竹座前に到着。数枚写真を撮る。

松竹座(1)
松竹座(2)

今回の道頓堀散策はこの辺で打ち止めとし、今後の楽しみに取っておくことにする。
かなり混む御堂筋線に乗って、新大阪に戻った。
















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