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執筆者と深読む「プロジェクトシンエヴァ」解題編#3_目次をなぞる③

引き続き「目次」を扱います。


実際の目次のキャプチャ

前回までと同じく、以下は本書のp2~p7「目次」全ページのキャプチャです。

p2~p3
p4~p5
p6~p7

章立てについて

以下も前回までと同じく、章立ての執筆者的グループ分けです。

序文:本書の位置付けと概要、本書の試み
---------ここまでがオープニング--------
第一部:1章 プロジェクト概要
第二部:2章 プロジェクト実績、3章 プロジェクト省察
---------ここまでが前半・ここからが後半---------
第三部:4章 内部評価、6章 外部評価
第四部:7章 プロジェクト総括 庵野秀明
--------- ここからエンディング---------
第五部:終章 シンエヴァンゲリオン劇場版 全参加スタッフ一覧、本書の制作協力(←目次には載ってませんが本書ほぼラスト、奥付けの前)
---------ここまでが本編---------
補足・付録部(Appendix):5章 ライセンスと宣伝、付録1、付録2、付録3

今回は上記のグループ分けの「後半」のうち、第三部にある「6章 外部評価」について説明します。
説明というよりも、ぐだぐだ悩んでいたことについて。

第三部: 6章 外部評価

「普通の展開」

前回の#2で、本書は報告書として「普通の展開」に沿うことを意識し、

①プロジェクト遂行結果 → ②遂行結果の内訳説明 → ③この遂行結果になった理由の自己分析 →④遂行結果に対する評価 

と構成したと述べました。
4章 内部評価、6章 外部評価はともに「④遂行結果に対する評価」に該当します。
このうち前回の#2では4章 内部評価における「内部」と「評価」という、よく考えると抽象度の高い言葉についての悩みと、ある種の諦め、実際の対応について触れました。
今回扱う6章では「外部」に関する悩みについて。

「外部」によるプロジェクト評価は可能か? 第三者委員会的なもの

内部評価があったならば外部評価もあるべき。これは「普通の展開」的発想に沿うもので、報告書として必要な要素です。

外部評価の「外部」とは、普通に考えると第三者のことを指すものと思います。
大きな事故や事件についての調査報告書をみてみると、対象に対する忖度を極力排除し、客観性に根差した究明が強く求められることから、当事者による報告書のなかに外部(第三者)評価があるのではなく、報告書の作成主体がそもそも「第三者(第三者委員会)」であることもしばしばです。

この第三者委員会がやることは、対象に関連する文字ベースの資料をひとまず根こそぎ集めて分析することと、対象に関連する人ひとりひとりに聞き取り調査(インタビュー)して分析することです。
これはどちらも主観に根差す資料で、さまざまな主観的資料を集めたうえで第三者として客観的・俯瞰的に分析するわけです。

事故や事件の当事者からは「仕方なかった」「だめと分かっていながらやった」といった発言や、そう読み取れる文書、メール等が出てくることが少なくありません。この場合、当事者に直接原因究明を求めても成果が出る可能性は高くない。当事者目線が足を引っ張るからです。

「仕方なかった」「だめと分かっていながらやった」について、当事者はそれがネガティブなものであると自覚していながらやっている。
では、自覚しているにもかかわらずなぜやってしまったのか。やり続けてしまったのか。

当事者目線としてはたとえば、上に厳しく言われた、ノルマを達成するためにやった、誰か(何か)を守るためにやった、等が原因として証言されると思います。
でも本当の問題は、上が下に厳しく言うようになった理由や、そのノルマ設定がされた文脈や、その誰かを守らなければならなくなってしまった構造で、当事者の立ち位置からは見えにくい、気づきにくいところ、当事者本人の視認範囲よりも上位・下位・遠くに原因が根差していたりします。

他には「問題があると思っていなかった」「良いことをしていると思っていた」という当事者リアクションもあると思います。
この場合、当事者は当事者同士の内部ルール、内部だけに通用している価値観にあまりにも長く、深く浸りすぎてしまったからそれが起きてしまったと考えられる。
そうした場合、内部ルールや内部価値観のただ中にいる人、つまり目がくもっている人が原因を見通すことは難しい。

要は、当事者は当事者であるがゆえにその対象のことをいちばんよくわかっているようにみえるし、当事者本人もそう自覚しているが、実は当事者は当事者であるがゆえに対象のことをわかることが難しい。
ある範囲については確かに誰よりも詳しいが、その範囲外については何もわかっていない、ということがあるし、往々にしてそれに気付くことができない。
ということです。

ここでいう「範囲」「範囲外」とは、たとえば「社内」「業界」といったものです。業界トレンドとか、業界有名人とか、業界内最大手とか。
その業界にとって当たり前のことが、業界外からみたら異常である、ということは頻繁にありますよね。
事件や事故が起きるまでその異常性を当事者も第三者も発見することができなかった、というのも同様にありふれています。

つまり「範囲外」の立場からでないと「範囲内」で起きたことを見通すことが難しいので、範囲外=第三者が調査して報告するわけです。

メタ的に対象を見なければ(メタ視点がなければ)問題が分からない事象を、当事者は当事者である限り扱うことはできない。とも言い換えられます。

第三者とは何者か? 

前項の冒頭で
"「外部」とは、普通に考えると第三者のことを指すものと思います。"
と普通に言ってしまっていますが、そもそも「第三者」とは何者か?

第一者と第二者は「私」と「あなた」を指し、まとめて「私たち」と言えるでしょう。
第三者とは「私たち」以外、つまり知らん(無関係な)人で、「無関係者」です。

先述にならえば、無関係だから(無関係者であれば)メタ視点を持てる、と言えそうですが、そう簡単ではありません。
無関係者はずっと素朴な無関係者のままでで対象を分かることができるか、という問題があります。これについては裁判員が参考になるのではないかと思います。

裁判員と無関係者

ある刑事事件があり、それを裁くために無作為抽出で裁判員として選ばれた「無関係者」がいる。
事件の経緯を渡され、それを読み、では判定してください。と言われたとしたら、この無関係者はどのように評定をするか。
自身が「いまこのとき」に持っている倫理・道徳・知識に基づいて評定するでしょう。というよりそれしか評定に使える道具を持っていません。そしてそれはもちろん危険です。
この無関係者は事件と無関係ではあるが、公正であるかどうかはわからないからです。というよりもまず間違いなく、誰しも何らかの方向にめっちゃ偏っているからです。
そのうえこの「事件の経緯」に、評定するために必要十分な情報がちゃんと含まれているかもわかりません。

なので実際に行われる手続きとしては、様々な証拠を見分し、証人の証言、原告・被告の言葉を聞き、考え、議論し、悩んで、合議を経て評定します。つまり無関係者として呼ばれ、「関係」資料や「関係」者による証言をたっぷりインストールしたうえで、改めて意識的に無関係者になって評定するわけです。
この手続きがないと公正ではない、というか、人はこのような手続きを経ないと公正さを獲得することができない、と今のところされている。(そしてそれでも完璧な公正さを準備することはできないはずです。が、それは本筋ではないので割愛)

このとき、裁判員として選ばれて、初めて現場に現れたときの「無関係」さと、様々な手続きを経て裁判員として評決を下すときの「無関係」さは、どう考えても同じ「無関係」ではありません。
もとの話に戻すと、第三者はただの第三者(無関係者)のままでいたら事件や事故のことを見通すことができない。
無関係な第三者として現れ、当事者たちや当事者たちを取り巻く環境・状況に接近し、知り、関係する知識やデータ等も勉強し(=関係し)、そのうえで当事者の考えや思い、当事者の環境や状況と自身を自覚的に切り離す=自覚的に無関係者に戻る)ことではじめて、当事者や、ただの無関係者には見通せない事象を客観的・俯瞰的に見通し、原因究明することができる。

メタ視点とは、こういう遠回りをしないと得られないわけです。

再び、「外部」によるプロジェクト評価は可能か?

前項を踏まえると「プロジェクト・シン・エヴァンゲリオン」を外部評価してもらうためには、

"『シン・エヴァ』制作に無関係な第三者を呼び、制作当事者たちや当事者たちを取り巻く環境・状況に接近してもらい、知ってもらい、関係する知識やデータ等も勉強してもらい、そのうえで制作当事者の考えや思い、制作当事者の環境や状況と自身を自覚的に切り離して評価を行ってもらうことが必要"

と結論されます。
そしてこれを完璧にこなすことは、現実的にはまず不可能です。正確には、小さないち出版プロジェクトでそれを行うことは非常に難しい。

制作資料と、証言してくれる制作当事者を集めることは、頑張ればできます。
では、資料の分析や証言聴取につきあい、考え、文章を書いてくれる人を用意することはできるでしょうか?
それをやってもらいたい人自体を挙げることはできる。しかし実際にやってもらうことはまず無理です。
ひとつにその対価を払うことができないためです。
正確には、そんな膨大な仕事量に見合う対価を払ってしまったら、本書がものすごい部数売れないとコストを回収できないが、そんな部数を確実に売る見通しは持っていないからです。
「ワンチャン売れて回収できる」でコスト計算することはできません。

ふたつに「この人に評価をしてもらいたい」というような人はシンプルにまず超多忙です。月単位で時間がかかりそうな仕事を受けてもらうことは、まずできません。

裁判員選出に部分的にならい、希望者を募ってそのなかから無作為抽出をする、ということは手法としてはありえます。しかしこちらも、それにリソースを割きコストをかけることはやはり現実的にはできません。
裁判員にはその選出手続きから評決までのフォローアップまで、担当裁判官から司法に関する事務方まで含めて多数の事務労力、リソースがかかっています。
他方、本書の制作に使えるリソースは僕一人です。

また、本書は「商品」です。詳細は企画・制作編で触れるつもりですが、本書で扱った内容はどれも「内容の充実」と「商品として売れるための要素」の一致を心がけています。
無作為抽出された誰かの評価にも「内容の充実」を獲得することは可能ですが、「商品として売れるための要素」の獲得はできません。というか、それを獲得できるようなアイディアを思いつけなかった。なのでこれもやはり現実的ではない。

本書における「外部評価」

"『シン・エヴァ』制作に無関係な第三者を呼び、制作当事者たちや当事者たちを取り巻く環境・状況に接近してもらい、知ってもらい、関係する知識やデータ等も勉強してもらい"

はできない。
となるとやれることは「外部」の定義を独自に(勝手に)緩和することです。

・「無関係」ではないが、「距離」はある。

・「新たに」時間を取って制作資料を読み込んで分析したり、制作関係者にインタビューすることまではできないが、「既に」制作に関してかなり聞き及んでいたり、制作関係者から話を聞いたりしている。

こういう緩和をしました。

その結果、6章 外部評価では川上量生さん、尾上克郎さん、高橋望さん、紀伊宗之さん、鈴木敏夫さんの5名に快諾をいただき(みなさん、即レスで即座に快諾していただきびびりました)外部評価をしていただいています。

この5名は当然、超多忙な人たちです。調査や分析のために月単位の時間を取ることなんてできません。
でも「既に」制作に関してかなり聞き及んでいたり、制作関係者から話を聞いたりしている人たちなので、つまり既にネタはお持ちなので、新たにネタをインストールする手間は省くことができます。

とはいえそこを省けたとしても、ネタをもとに考え、準備し、何時間も話してもらい、それをもとに構成した原稿をチェックしてもらい、修正をしてもらう、というのは多大なコストを払ってもらう必要があります。
皆さん、これに快く対応してくれたのですが、やはり普通ではありえないことをしていただいてたなと思っています。

そしてこの外部評価の依頼に関しても、庵野さんからは大きな助言と、依頼にあたっての支援をもらっています。なにせビッグネームで、普通は接触することも難しい人たちですから。

内輪評価?

このような検討(というか悩み)と経緯を経て「外部評価」は行われました。
しかしエヴァやカラーの歴史に詳しい読者にとっては「外部」ではなく所詮「内輪」だろう、と思う人がいることもわかっていました。
そういう印象をもった人に直接説明することはできないし、本書の限られたページ数のなかで、こういう考えでこの人たちの評価を「外部評価」としています、と説明することもできない。読み手によってはそういう説明はただの言い訳である、とも思うでしょうしね。

なので、できることは作り手として外部性を高めるよう「心がける」だけです。
なんとも心もとない対応ですが、それくらいしかできません。
内輪評価として読む人はいたとして、しかし実際に読まれているその内容には、実は外部性が宿っている、というものにすることだけです。

理想的な外部評価は、

"『シン・エヴァ』制作に無関係な第三者を呼び、制作当事者たちや当事者たちを取り巻く環境・状況に接近してもらい、知ってもらい、関係する知識やデータ等も勉強してもらい、そのうえで制作当事者の考えや思い、制作当事者の環境や状況と自身を自覚的に切り離して評価を行ってもらうこと"

と書きました。
この前半部分は緩和せざるをえなかった。

しかしラストの部分「そのうえで制作当事者の考えや思い、制作当事者の環境や状況と自身を自覚的に切り離して評価を行ってもらうこと」については残せるのではないか。少なくとも残すことを心がけることはできるのではないか。

ということで、外部評価者のみなさんにインタビューを行う際には「カラーやスタッフと長い付き合い、時には苦楽を共にした付き合いがあり、お互いのいろいろなことを知っていて、気を遣うこともあるでしょうが、そのうえでそれを自覚的に切り離して(自覚的に外部性を宿して)評価をしてください」というスタンスでインタビューをしました。

もちろん、これは単なるスタンスでしかありません。そんなスタンスでインタビューをしてもやはり、庵野さんのことはもちろん、ほかのエヴァ制作関係者の顔や声までよく知っている人たちなので、意識的にも無意識的にも気を遣うでしょう。

しかしそれでも「努めて自覚的にそれらと切り離した言葉」も少なからず話してくれた、と僕は感じています。まぁ、僕の主観でしかないのですが。
それに「努めて自覚的に切り離す」という意識自体が、切り離す行為を邪魔してしまうこともあるかもしれません。たとえば過度に突き放した評価をしてしまうとか。

以上をふまえると、本書の構成的な統一性を無視し、正直に全てさらけ出すならばこの「6章 外部評価」は、
「6章 外部要素を少しでも多く獲得し、外部評価に少しでも近づくことを目指して行われた、『シン・エヴァ』制作には一定の距離はあるが縁もある人たちによる、プロジェクト・シン・エヴァンゲリオンに対する評価」
といったタイトルがふさわしいかもしれません。

結び

いろいろ述べてきましたが、人が「外部」を獲得しようとするときにできることはただ一つ「外部を目指す」ことだけで、「ねらって外部を獲得する」ことなんか本当はできないのではないかと思います。
外部を獲得しようとねらうその行為、外部を獲得したいという思いそのもののなかに既に当事者性(内部性)が入り込んでいるので。
そうすると外部の獲得というのは「突然空から降ってきた」みたいなことでしか、つまり突発的な偶然によってでしか獲得できなさそうです。
それが起きやすいような作為がわずかでも入り込んだらそれは偶然でなくなるように、外部を意識的に求めたらそれは外部ではなくなる。

完璧な外部性は得られずとも、外部性を部分的に含めること、部分的に取り込むことはできるし、その過程でメタ視点に立つことはできる。
人ができるのはそれくらいだし、それくらいのことしか人にはできないという自覚が大事なんじゃないかなと思います。
そしてそれくらいなんだけれど、人の能力でやれることにしてはけっこうマシで、いい線いっているんじゃないかと思います。

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