詩 阿修羅との「対話」
寺澤 満春
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詩 阿修羅との「対話」1997-2009-2023(やく24分)
stand.fm『よみききの世界へ』(2023/8/27, My Car Studio収録・書/倉庫スタジオ配信)
https://stand.fm/episodes/64eb03c88e2fd6a00ea240aa
寺澤 満春 阿修羅との「対話」:1997-2009-2023
寺澤 満春
かつて、阿修羅は、神そのものであった
その後、阿修羅は、「善」と戦う「悪」となった
そして、阿修羅は、時として太陽を喰い、時として月を喰った
阿修羅の住いは、海の底や地の底にしかなかった
やがて、阿修羅は、天平の時代に興福寺でよみがえった
そこに、阿修羅は、釈迦如来の従者の一人として立った
今、阿修羅は、「いのち」を守る三面六臂の神である
その姿を見よ
阿修羅は、三つの顔と六本の腕を持っている
あの三つの顔を見よ
当たる光の方向やぼくたちが見る角度によって、
阿修羅の表情や心情は変わりゆく
阿修羅には、忍び寄る不安と深くて暗い怒り、
そして、気の遠くなるような悲しみの表情がある
忍び寄る不安がぼくたちの前を通り過ぎていったあとには、
ふっくらとした安らぎが残り、
深くて暗い怒りの底の底には、輝くような喜びが広がっている、
そして、気の遠くなるような悲しみの果てに、
そっと、ぼくたちをつつみこむ慈しみの世界があることに気づく
その六本の腕を見よ
ひと組みの手は、ぼくたちの前で合掌し、
他のふた組みの手は、何ものかを支え持っている
少なくとも、ぼくたちの目にはそう見える
しかし、阿修羅は、この目に見えぬ無数の手を持っている
この手、あの手、その手……
「手」とは、人の生きざまを表すものだ
手が焼け、手がこみ、手がかかり、手に負えず、手に余り、手を切る
手を出し、手をつけ、手を染め、手に落ち、手が後に回ることもある
手は早いこともあり、塞がることも離れることもある
しかし、ぼくたちのゆく手には、
たとえ、どんなに手ごわい、手を煩わす相手がいたとしても、
また、どんなに手痛い仕打ちを受けたとしても、
手をこまねいたり、手を抜いたりすることもない、
その手にものらず、手にもかからず、
しかも、手加減もせず、手を止めることもなく、
手取り足取り、手を携え手に手を取って、手を尽くす、
そんな手に汗を握り、手塩にかけられ生き生かされてゆく
今、再び、阿修羅の姿全体に目をやる
まぎれもなく阿修羅は、善も悪も合わせ持つ
君なのであり、ぼく自身なのである
変わりゆく表情と心情とを持つ阿修羅の顔は、
君の顔であり、ぼくの顔である
あの六本と見えない無数の、阿修羅の手は、
君の手であり、ぼくの手なのである
古来より「友」は、
「ナ(手)」に「又(手)」を添え助けることを意味していたらしい
君もぼくも、時空を超えてあの阿修羅を友として
じっくり・ゆっくり・うっとり、《じゆう》に「対話」してみないか
たとえ、君とぼくが道に迷いそうになっても
きっと、ぼくたちのゆく手を支え示してくれるはずだ
あの三面六臂を持った阿修羅は……
原作1997.10.22、加筆修正2009.4.11
関連サイト
・今ここで寺澤満春(2000)「Asuraたちの履歴書」がReflectすることは?(やく13分)
stand.fm『よみききの世界へ』(2023/8/26 朝) 収録・配信
https://stand.fm/episodes/64e9327efe0a51685ac705e5
https://genkaikyoukaiekkyo.blogspot.com/2022/01/asura2000.html
・Asuraたちの履歴書:2000-2015【短編小説】
https://tokinomahoroba.blogspot.com/2019/09/asura2000-2015.html
・阿修羅像をめぐる「対話」のゆくえ:2009.4.12-4.14【書簡集】
https://tokinomahoroba.blogspot.com/2019/09/2009412414.html
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寺澤 満春 阿修羅との「対話」:1997-2009-2023
寺澤 満春
かつて、阿修羅は、神そのものであった
その後、阿修羅は、「善」と戦う「悪」となった
そして、阿修羅は、時として太陽を喰い、時として月を喰った
阿修羅の住いは、海の底や地の底にしかなかった
やがて、阿修羅は、天平の時代に興福寺でよみがえった
そこに、阿修羅は、釈迦如来の従者の一人として立った
今、阿修羅は、「いのち」を守る三面六臂の神である
その姿を見よ
阿修羅は、三つの顔と六本の腕を持っている
あの三つの顔を見よ
当たる光の方向やぼくたちが見る角度によって、
阿修羅の表情や心情は変わりゆく
阿修羅には、忍び寄る不安と深くて暗い怒り、
そして、気の遠くなるような悲しみの表情がある
忍び寄る不安がぼくたちの前を通り過ぎていったあとには、
ふっくらとした安らぎが残り、
深くて暗い怒りの底の底には、輝くような喜びが広がっている、
そして、気の遠くなるような悲しみの果てに、
そっと、ぼくたちをつつみこむ慈しみの世界があることに気づく
その六本の腕を見よ
ひと組みの手は、ぼくたちの前で合掌し、
他のふた組みの手は、何ものかを支え持っている
少なくとも、ぼくたちの目にはそう見える
しかし、阿修羅は、この目に見えぬ無数の手を持っている
この手、あの手、その手……
「手」とは、人の生きざまを表すものだ
手が焼け、手がこみ、手がかかり、手に負えず、手に余り、手を切る
手を出し、手をつけ、手を染め、手に落ち、手が後に回ることもある
手は早いこともあり、塞がることも離れることもある
しかし、ぼくたちのゆく手には、
たとえ、どんなに手ごわい、手を煩わす相手がいたとしても、
また、どんなに手痛い仕打ちを受けたとしても、
手をこまねいたり、手を抜いたりすることもない、
その手にものらず、手にもかからず、
しかも、手加減もせず、手を止めることもなく、
手取り足取り、手を携え手に手を取って、手を尽くす、
そんな手に汗を握り、手塩にかけられ生き生かされてゆく
今、再び、阿修羅の姿全体に目をやる
まぎれもなく阿修羅は、善も悪も合わせ持つ
君なのであり、ぼく自身なのである
変わりゆく表情と心情とを持つ阿修羅の顔は、
君の顔であり、ぼくの顔である
あの六本と見えない無数の、阿修羅の手は、
君の手であり、ぼくの手なのである
古来より「友」は、
「ナ(手)」に「又(手)」を添え助けることを意味していたらしい
君もぼくも、時空を超えてあの阿修羅を友として
じっくり・ゆっくり・うっとり、《じゆう》に「対話」してみないか
たとえ、君とぼくが道に迷いそうになっても
きっと、ぼくたちのゆく手を支え示してくれるはずだ
あの三面六臂を持った阿修羅は……
原作1997.10.22、加筆修正2009.4.11
関連サイト
・今ここで寺澤満春(2000)「Asuraたちの履歴書」がReflectすることは?(やく13分)
stand.fm『よみききの世界へ』(2023/8/26 朝) 収録・配信
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・阿修羅像をめぐる「対話」のゆくえ:2009.4.12-4.14【書簡集】
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