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101年目 証言を 凧にのせて

1923年9月1日
関東大震災の直後から
「朝鮮人が井戸に毒を入れた」
「朝鮮人が暴動を起こそうとしている」
といったデマが広がり
多くの人の命が奪われた。

2024年は、
関東大震災から101年が経過した年。

百年(ペンニョン)主催の
関東大震災朝鮮人虐殺について学ぶ
ワークショップに参加した。

当日配布された資料。左から、隅田川〜荒川の地図、フィールドワークのルート資料、実際の証言の資料。

朝鮮半島にルーツを持つひと を
思い浮かべると
韓国で生まれ育って
日本で就職した近所の友達。
最近初めて自分に韓国のルーツがあることを知ったという
昔からの友達。
大好きな韓国文学の著者。
韓国料理屋さんでお話ししたマダム。
K-Popアイドル。
SNSでよく見かける
いつか買ってみたい水キムチ屋さん。
実際、まだまだ思いつく。

「「流言飛語(りゅうげんひご:根拠がないのに言いふらされる無責任なうわさ)で住民が極限状態になってるんだ。交番にずっといた相棒の巡査は流言を信じ込んでいて」*1
「朝鮮人の人たちが殺されたのは無惨でしたね。あの白鬚橋のところでね、3日目のお昼3時ごろですかね、トタンをぶち投げてあるけれどと思って見ると、ひもを身体にゆわえて朝鮮人が川に入って死んでいるのです。」
「10人くらいの朝鮮人がみんな針金で足をゆわかれて、3人ぐらいずつ一緒に、多い人は10人くらい一緒に足を少し離してつなげてね、だから皆つながっているのです。」*2
「お腹の大きい赤ちゃんが生まれるような人が自分の腹を結えられて水に投げられ、赤ちゃんが産まれちゃって、赤ちゃんがへその緒でもってつながっているんです。そしてお母さんがあお向けに浮いてる、赤ちゃんがフワフワ浮いてるんです。」*2
「白鬚橋ばかりじゃあないんです。人形橋の向こうもずいぶんひどい様子でしたよ。ずいぶん無惨でしたね。」*2

*1 関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『風よ鳳仙花の歌をはこべ-関東大震災・朝鮮人虐殺から70年』教育史料出版会、1992年
*2「白髭神社でみたもの」日朝協会豊島支部編『民族の棘-関東大震災と朝鮮人虐殺の記録」日朝協会豊島支部、1973年

ワークショップではまず、凧をつくる。
自分が担当する証言を凧に書き写す。

担当する証言はくじ引きで決まる。わたしは当時二十歳、寺島で砂利運びなどに従事した方の証言。

「私はこの墓地を横切った時、その空地には惨死体がいっぱいで、墓地にまでおよんでいました。大島の羅漢寺ではこれ以上だろうと思ったりしながら、私は、手や足をふまないように気をつけて、死体をまたいで逃げました。」*3
「警察が毒物が入っているから井戸の水は飲んではいけないと言ってきた。でも信憑性ある話はいま考えると一つもなかった。実際に見たものはなかった。みんな人から聞いたことだった。朝鮮人が集団で追っかけてきて逃げたという話も、よく聞くと、追いかけられた朝鮮人の前を歩いていてそういう状況になったということだった。」*4
「曳舟川の土手のところをゾロゾロしばられて、四つ木の方へ向かっていく行列を見ましたけどね、あとで問題になった朝鮮人の虐殺ですね。私なんか、まのあたりに数珠つなぎにされていくのを見ましたけどね。」*5

*3『労働運動史研究』1963年7月「震災40周年号」、労働旬報社
*4関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『風よ鳳仙花の歌をはこべ-関東大震災・朝鮮人虐殺から70年』教育史料出版会、1992年
*5『江戸東京博物館調査報告書第10巻-関東大震災と安政江戸地震』江戸東京博物館、2000年


凧である理由は、ふたつ。
ひとつめは、
空爆で12/7に亡くなった作家の
Refaat Alareerさんの遺した詩
“If I must die”から。

空高く舞い上がる凧をつくる。

ふたつめは、
ガザでは
東日本大震災追悼の意を込めた
凧揚げが実施されているため。
今度は私たちが応えるという意味もあった。

証言のあった場所に歩いていく。
証言のあった場所は点在しており
合計で3時間ほど歩く。
その場所で、その場所での証言を、朗読する。

隅田川
隅田川のすぐそばで朗読をする


自警団から朝鮮人を匿った日本人がいたことを忘れないために
東京・墨田区の法泉寺に「感謝の碑」が建てられた。

感謝の碑


表面に「鶴よ天に上がれ」と、
虐殺された同胞に呼びかける
ハングルが在日の書家の手で書かれている。

2009年9月、
墨田区八広6-31-8に建てられた、追悼碑。

追悼碑

そして荒川河川敷へ向かう
荒川河川敷でも、
虐殺が行われたと証言されている。


「たしか3日の昼だったね。荒川の四ツ木橋の下手に、朝鮮人を何人もしばってつれて来て、自警団の人たちが殺したのは。日本刀で切ったり、竹槍でついたり、鉄の棒で突きさしたりして殺したんです。女の人、なかにはお腹の大きい人もいましたが、突き刺して殺しました。私は見たのでは、30人くらい殺していたね。荒川駅[現・八広駅]の南の土手だったね。殺したあとは薪を持って来て組み、死体を積んで石油をかけて燃やしていました。大きな穴を掘って埋めましたよ。土手のすぐ下のあたりです」*6

*6 関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『風よ鳳仙花の歌をはこべ-関東大震災・朝鮮人虐殺から70年』教育史料出版会、1992年


凧をあげる。


たったの101年後にいる私たちは
証言のあった場所を訪ね歩き、
証言を読み上げて、
凧をあげる。
静かに集って凧をあげる。

国の教える歴史は、
加害の歴史より被害の歴史の方が多くなる。
私はつい最近まで、
関東大震災での朝鮮人虐殺のことについて
うっすらとしか認知していなかった。
「まあ、あった、んだ、ろうな」くらい。

実際わたしがこどものころ
無邪気に水遊びしていた公園も
38人の朝鮮人たちが殺されたという。
今の今まで、知らずにきてしまったのだ。

「虐殺」とは なにか。
それは具体的に名前があり、
友達があり、家族がいて、
昨日たべたごはんがあり、
これから食べたいものもきっとあり、
明日も生きると
なんの疑いもなかったひとりが
具体的に 無惨に 殺されることだ。

誰も教えてはくれないから
自分から知りに行こう。
きっかけは、「ほうせんかの家」にある。
毎週土曜日にopenしている。


◆証言を詳しく知りたい方は、こちらの書籍をご参照ください
西崎雅夫編著『[増補百年版]関東大震災朝鮮人虐殺の記録:東京地区別1100の証言』現代書館、2023.

◆百年とは
ほうせんか100周年追悼式実行委員会「百年(ペンニョン)」。
「ペンニョン」は百年の韓国・朝鮮語読み。
朝鮮人虐殺のことを学ぶため、墨田区八広にある「ほうせんかの家」に各々集まった20代〜40代で、2021年冬に結成された。「関東大震災時に虐殺された韓国・朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会」(一般社団法人ほうせんか)が1982年から毎年9月荒川河川敷で行ってきた追悼式を継承し、2023年追悼式の企画・運営を担った。
若い世代が中心となり、映画の上映会や、虐殺現場を歩いて回るワークショップ、資料や写真のアーカイブ化に取り組む。

(追記 2024/07/08)
今年こそ、
小池都知事に追悼文を出させなければならない。
このことを
こんなむごいことを
無かったことにしてはならない。

(追記2 2024/07/08)
本noteは
百年のメンバーの皆さんによる
とても丁寧なフィードバックがあり
書き上げることができました。
本当にありがとうございました。
ここにも感謝の意を残します。

鈴木なりさ

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