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大事な人の声を聴くということ

最近、二日に一回くらいおばあちゃんに電話をかけているのだけど「なんでもっと早くこうしなかったんだろう」と電話を切るたびに思う。後悔と嬉しさが綯い交ぜになったような気持ちでいる。

外出自粛要請がなされてから、朝の散歩にでかけがてらだったり、昼ごはんをテイクアウトする途中だったり、ふと意識した時におばあちゃんに電話をかけるようにしている。千葉に住むおばあちゃんには、電車に1時間も乗れば会いに行けた、これまでは。いつでも会いに行けたから、結局全然会いに行かなかった。長らく顔を見ていないとなんとなく電話もしづらくて、忙しさにかまけて遠ざけていた。たまにおばあちゃんが気にかけて電話をくれると、無理に元気な声を出して、そして最近の忙しさをさりげなくアピールして、電話をかけていなかったことの免罪符をつらつら並べて申し訳なさを紛らわせていた。初孫の私をずっと気にかけて育ててくれたのは充分すぎるくらいにわかっているのに、天邪鬼で親不孝だ。

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すぐに繋がる電話。背後からは大きすぎるくらい大きいテレビの音、使い込まれたうすピンクの小さなガラケーを伝って私のiPhoneに流れ込む、大好きな声。「おはよ〜ばばちゃん、体調大丈夫?」からはじまる他愛ない会話の裏で、最近おばあちゃんの手料理を食べていないことと、かぼちゃの煮物を自分で作った時におばあちゃんの味を強烈に思い出したことを思い出す。おばあちゃんのかぼちゃの煮物が世界でいちばん好きだ。あ、春巻きもゆずれないかも。あとモツの煮込みも、うなぎの卵とじも、肉じゃがだって逸品だ。母親には申し訳ないけれど、私の中の『母の味』はおばあちゃんの手料理だ。おばあちゃんちで、おばあちゃんのご飯を前にして、母と一緒になんども「やば〜〜〜〜やっぱりばばのご飯はうまあああ〜〜〜〜」と叫び合って育ってきた。私は相当におばあちゃんっ子だと思う。おばあちゃんは癌を持っているから、このご時世、普段以上に体調が心配だ。抗がん剤治療がはじまってもう2年くらい経つ。食欲のないときはコカコーラでご飯を流し込むしかなかったり、急に倒れて救急車で運ばれたりしているけれど、健気にしなやかに戦っている。本人はあと数年、というけれど、私は何年でも生きて欲しいと毎度伝えている。本当に、あと100年だって生きてほしい人だ。こんな人なかなかいない。最近は別件で目の手術をしたようで、医療機関への行き来での感染予防には人一倍気をつけているという。おばあちゃんの孫、つまり私の従兄弟は全部で10人いて、おばあちゃんに食材を届けたり、飼っている犬の散歩を手伝ったり、LINEグループで繋がっておばあちゃんの様子を共有したりして、日々気に掛けている。

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今朝電話したときは、『あ〜〜いま元気になったよ!電話をくれたから。朝はなんとなく体調が悪くてさあ、ほら、やっぱ考えちゃうじゃない。コロナにかかったらどうしようとかさ。そんで一人で考え込んだら気持ちがしずんでしまってさあ〜』という。それからなんどもなんども、『ちゃんとご飯を食べるんだよ』、『野菜と果物がだいじだよ』『あと陽の光もだいじだよ』と。あと、『ヨーグルトにえごま油をちょっと垂らして砂糖をかけたのをばばは二日にいっぺん食べてるけどいい調子だよ』というのも教えてくれた。

10分程度の電話だけれど、切る時にはいつも名残惜しくなる。あ、来週会いに行くね〜とかも、やろうと思えばできていたのに、やれる時にはやらなくて、やりたい今は本当にできなくなってしまった。いつ会えるんだろう。元気で会えるだろうか。会いたいなあ。途方もない気持ちになる。とはいえ、だいたい大切なことってこんなものだ、とも思う。会いたい時に会いに行って、伝えられる時に伝えて、抱きしめられる時に抱きしめておかないとなんだよねきっと。

時間はありあまるほど十分にある今、いろんなことにかまけて『まあいっか』と思っていたことや、実はすごくやりたかったことに、意識して時間を注いでみるのがいいかもしれない。今できることに集中しよう。

私はふと意識した時に大事な人の声を聴きにいこうと思う。

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