さざなみ光る春のせせらぎ 寺田寅比古
いつものように日常 Feel℃ Walk をしていて、名越のバス停近くを流れる水路脇に来た。春の小川はさらさらいくよという歌詞そのままのせせらぎが流れていた。そこに何も「不思議」も「変」もないはずだった。
しかし、そのせせらぎが数メートルもいかないうちにピタッと流れを止めてしまっている。急に傾斜がゆるやかになったようには見えない。にもかかわらず、ほんの数メートル前のせせらぎは消え、淀んでいる。
流れがどうして止まってしまったのか不思議に思いながら、水面をよく見ると、先ほどのせせらぎとは逆方向に揺らいでいる。もしかして逆流しているのか。流れが止まっただけでも不思議なのに、流れの向きが突然変わるなどということがあるのか。さらに謎が深まった。
淀みのちょっと先には、橋がかかっていた。そのたもとから側溝の水が流れこんでいた。だが、その流れは、水の流れを押しもどすほど強くはない。どう考えても流れを逆流させるほどの強い力を働かせるものがあるとは思えない。
すると、水面に細かいゴミが浮かんでいるのが見えた。そのゴミは、ゆっくりながら、今までの流れの方向に流れているではないか。流れは逆流していなかったのである。
となると、今度は、流れが逆になっているように見える現象はどうしてなのかが気になってきた。どうして光のきらめきは流れとは逆なのか。
「何見てるの?」
突然、話しかけられた。3歳ぐらいの女の子が声をかけてきた。私が用水路をじっと見下ろしているので「何かあるのか」と不思議に思ったのだろう。
近くにはお母さんと思われる女性がいた。赤ちゃんを抱えていて、別の女性と話をしながらこちらに歩いてきた。ママ友どうしだろうか。
「ほら、あそこに小さな白いものが浮かんでいるだろう。あれが動いている向きと、キラキラ光っている流れの向きが逆だから変だなと思って、どうしてだろうと見ていたんだ」
私の言葉にその子は黙っていた。二人の女性は、怪しげな振る舞いをしている見知らぬおっちゃんの関心がわかり、
「ああ、なるほどね」
とつぶやいた。何をしているのかはわかったというだけの気のない声。「不思議」が共有された感じはなかった。
「○○ちゃん、行くわよ。すいません。ありがとうございました」
お母さんの呼びかけには応えず、女の子は相変わらず黙ったまま水面を眺めていたが、いきなり近くに生えていた草をむしって川に投げた。水面に落ちた草は、流れ始めた。草の動きで流れの向きときらめきが逆方向であることがよりはっきりとわかった。
あの子は、私の意図を読みとって、どうも不思議なことが起きているということに気づいた。自分でも試して確かめてみようと思ったから草を投げたのだろう。それは、そのあともお母さんの方には行かず、私とともに草の流れを眺めていたことから明らかだった。
再び、お母さんに呼ばれ、女の子は去っていった。ものの数分の出来事だった。
その直後、突然、強い風が吹いた。すると、浮かんでいた白い花びらが流れの向きを変えた。風が引き起こしたさざなみに持っていかれたのだ。流れに逆らってできた水面のきらめく動きは風がつくっていたのである。あの子が運んできてくれたかのような突風がそのことを教えてくれた。(下の動画はそのときの記録です)
小さな花びらや草の切れっ端のようなものとは対照的に、大きな紙切れが風のつくったさざなみに逆らって悠々と上流から流れてきた。風はあくまでも水面だけ。水全体を流す力には影響を与えないと言わんばかりだ。水の流れが運ぶ力と水面のさざなみが運ぶ力とのつながりがどうなっているのかさらに不思議と謎が深まる。
こうして観察し続けると、水底が浅く、水も澄んでいて、微細な風が引き起こす水面のわずかな揺らぎ、凸凹によって光が屈折して水底に届くことで生まれたきらめきの流れなのだとわかってくる。
川の流れと風の流れ
どちらも決して強くはない。一方は淀みのように見え、一方は吹いていないように感じる。しかし、わずかだからこそ二つが織り成す流れの共演を見ることができる。
日常のちょっとしたことの観察から学ぶことは多い。