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蜜柑の旅 寺田子規

鎌倉の小道を歩いていると蜜柑の木の生えている家によく出遇う。蜜柑と言っても、こたつで皮をむいて食べる小ぶりの温州蜜柑ではない。夏蜜柑やハッサクのような大きなものである。観賞のために植えているだけではあるまい。食用にするのか。しかし、たわわに実っているままでもぎ取られる気配もなく放置されている。カラスが中身だけ綺麗に食べて、皮を道路に残しているのに出くわすぐらいだ。

青空広がる日曜の午後、やはり蜜柑の生えている家のそばを通りかかった。近くに水路が流れているので何気なく川面を眺めると蜜柑が何個も転がっていた。

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自然に落ちた蜜柑が小道に止まらず、そのまま転がり目の前の水路に落ちたのだろう。それにしても規則正しく並んでいる。一つの蜜柑を除き、六個の蜜柑がほぼ一列になっていた。

一夜明けると朝から窓に雨がたたきつけられるほどの大雨だった。ふとあの蜜柑のことを思い出した。これだけ雨が降れば、水路は増水し、あっけなく蜜柑は流れ去ったことだろう。

午後になり、まだ空はどんよりしていたが、小雨になった。今更、あの場所へ言っても蜜柑が並んでいるはずがないことは明らかだった。しかし、どうしてもどんな様子になっているのか見に行きたくなった。

水路は増水し、くすんだ黄土色に濁った水の流れは速い。下水管からも勢いよく水が流れこんでいた。もちろん夏蜜柑はなかった。

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急流を眺めているうちに蜜柑を運び去った流れの先を追いかけてみようと思った。この流れを追ったら海にたどり着くはずだ。おそらく由比ヶ浜の真ん中に流れ出る滑川に合流するだろう。

流れは数十メートル先で暗渠になった。しかし、それも数百メートルも行かないうちに橋の下から再び外へ出て、別の川へと流れ込んだ。

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川幅が少しだけ広がった。このあたりはいまどき珍しくフェンスがない。すぐそばを激流が流れるのを感じることができる。

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しばらく行くと川は直角に曲がり、道から離れていった。

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流れの先を追い求めて路地を進む。すぐに流れと再会。橋のたもとのマンホールの穴からは水が噴出し、川に流れ込んでいる。短時間に相当の雨が降ったことがわかる。下校途中の小学生が、マンホールから噴き出す水を長靴で踏みつけ、止めようとしたが、無理だった。

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川は横須賀線をくぐり抜け、由比ヶ浜に向かって流れてゆく。

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最後に右へ大きく流れが曲がるとついに滑川に合流した。もう海まで1kmもない。

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ここまでマンホール前の小学生の他はほとんど人とは出会わなかった。この雨降りでわざわざ散歩する人も買い物に出る人もいないだろうから当然のことだ。しかし、濁流の中にわずかに残された草むらには、カワウとアオサギが活発に動いていた。彼らにとってはこの環境は決して悪いものではなく、エサを見つけるには格好の状況のようだ。

鳥の様子とともに川を流れてくるものを見つめていると黄色い丸い物体。あれは蜜柑では。急な流れに乗ってどんどん近づいてくる。確かに蜜柑だ。もちろん昨日並んでいたあの蜜柑ではないが、あの蜜柑もこうやって流れていったに違いない。

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目の前をすぐに流れ去る。これは海まで追いかけなければと思った。滑川はいったん道から離れて進むので、次に待ち構えられるポイントは、河口寸前にかかる橋だ。そこまで先回りすることができるか。精一杯早足で歩く。距離にして数百メートルの競走だ。

橋にたどり着くと、ちょうど蜜柑も橋のところまで来ていた。ほぼ同着。川の流れの速さは人が高速ウォーキングをするぐらいということがわかった。

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蜜柑はあっという間に橋の下を通り抜け、目の前の海に向かっていった。

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しかし、国道134号線にかかる橋の直前で、急に流れる速度が遅くなった。海からの波が河口から流れ込んで逆流し、川の流れを押しとどめているのだ。

ここまで来ながら海には到達しないのか。ゆっくりと浮き沈みを続ける蜜柑を眺めていると、わずかながら海に向かって流れていた。ここから河口までは寄り添って歩くことができる。

最後の橋をくぐり抜け、鉛色の空が広がり、いつもよりも波の高い海に向かって蜜柑は進み続けた。仲間の葉っぱたちと木っ端たちを従えて。

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私も川のすぐ脇の砂浜に降り立ち、河口へと足を進めた。その時、目に入ったのは、先にたどり着いていた蜜柑たちだった。ひとしきり荒れた海での海水浴を終えてビーチでひと休みしているのだろうか。もしかして目の前にあるのは昨日の蜜柑なのかもしれない。

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さて、浜辺の蜜柑に気をとられているうちにあの蜜柑は海に出て行ってしまったのではないか。慌てて川に目を移すと、海からやってくる波に巻き込まれながら行ったり来たりしている。

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やがて、蜜柑は波乗りを始めた。なんかやけに楽しそうなので、思わず動画に撮ってしまった。

強い風と波を追い求めてやってきたサーファーたちに混ざってひとしきり波と戯れた後、こいつも砂浜に上がって過ごすのだろう。

たまたま出会った一列の蜜柑に誘われて、経済原理からすれば生産性のない、無意味な旅をしてしまったということになるのか。しかし、私の心は、暖かな蜜柑の色に包まれたような満たされた気分でいっぱいだった。蜜柑に呼ばれ、蜜柑と歩み、遊んだ旅。

空にはたくさんのカモメが、私たちのことなど気にもせず、飛び交っていた。

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