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落ち椿 あおむけ?うつむき?どちらかな 夏目寅彦

買い物帰りに通るいつもの道沿いにある用水路をふとのぞいた。水はほとんど流れていない。コンクリートの底面には薄い緑色の藻のヴェール。春の陽光が当たる部分は透明に輝き、おぼろげな木陰がまだらに重なり合う。そんな用水路をキャンヴァスにして一輪の椿の花が鎮座する。そのそばには虫食いの穴がアクセントとなったチョコレート色の楕円の枯葉がお供している。住宅街の道端の用水路というほとんどの人が見向きもしないところでも、そんなことなど全く意に介さず、自然のレコードは美しき調べを奏で続けている。

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柔らかき水面(みなも)仰向き椿かな 端求

そんな一句をひねってみた。

妖艶な椿 ゴージャスな美しさゆえの魔性? 

二月から三月にかけて、椿の花がたくさん落ちて、中には踏まれてつぶされてしまったものも含めて、真紅の点々を路面に描いているのに出くわすだろう。存在感のあるぼってりした花丸ごとがぼとりと落ちる。まるで首が切り落とされたようで、縁起がよくないので病人のお見舞いには厳禁と言われてきた。美しい花だが、妖艶なルージュ色の大きな目玉で睨まれているように見える。ちょっと無残な散り方も美の裏側に潜む怨念を感じさせるかもしれない。椿姫という小説が生まれ、今も人気の高いオペラ作品であるのも、シャネルや資生堂とがカメリア=椿をマークにするのも、椿のゴージャスでありながら危うい魅力が人を惹きつけるからであろう。

夏目漱石は『草枕』の中で椿をこう表現した。

「一日勘定しても無論勘定し切れぬ程多い。然し眼が付けば勘定したくなる程鮮やかである。唯鮮かと云うばかりで、一向陽気な感じがしない。ぱっと燃え立つ様で、思わず、気を奪られた。後は何だか凄くなる。あれ程人を欺す花はない。余は深山椿を見る度にいつでも妖女の姿を連想する。黒い眼で人を釣り寄せて、しらぬ間に、嫣然(えんぜん)たる毒を血管に吹く。欺かれたと悟った頃は既に遅い。向う側の椿が眼に入った時、余は、ええ、見なければよかったと思った。あの花の色は唯の赤ではない。眼を醒す程の派出やかさの奥に、言うに言われぬ沈んだ調子を持っている。……(中略)……黒ずんだ、毒気のある、恐ろし味を帯びた調子である。この調子を底に持って、上部はどこまでも派手に装っている。然も人に媚ぶる態もなければ、ことさらに人を招く様子も見えぬ。ぱっと咲き、ぽたりと落ち、ぽたりと落ち、ぱっと咲いて、幾百年の星霜を、人目にかからぬ山陰に落ち付き払って暮らしている。只一眼見たが最後!見た人は彼女の魔力から金輪際、免るる事は出来ない。あの色は只の赤ではない。屠(ほう)られたる囚人の血が、自ずから人の眼を惹いて、自から人の心を不快にする如く一種異様な赤である」

漱石は椿にトラウマでもあるのかと思えるほどの執拗な描写。そんな気持ちもわかるような妖艶な美しさゆえの魔性を秘めている感じが椿にはある。

落ちざまに虻(あぶ)を伏せたる椿かな

これは漱石がつくった俳句である。子規のように「写生」し、自然をしっかり観察してつくられた句である。『草枕』であれほど椿を描写したのも、普段から漱石は椿が気になり、観察していたからであろう。この俳句は、漱石の愛弟子である物理学者・寺田寅彦のインスピレーションを刺激した。果たして椿が伏せたまま落ちて虻を閉じ込めることがあり得るのか、学術論文を書いて検証したのである(「空気中を落下する特殊な形の物体ー椿の花ーの運動について」1933年)。

小山慶太著『寺田寅彦 漱石、レイリー卿と和魂洋才の物理学』(中公新書)をお読みいただくと、寅彦の実験スケッチや実験分析の方法などが詳しくわかる。結論から言うと、椿のような形態の物体は、落下の途中で回転し、ほとんどがあおむけで着地することがわかった。通常は椿は伏せて落ちないことがデータで明らかにされたのである。

となると漱石の俳句のように虻(あぶ)をフタするようにうつぶせに落ちることはないのか。このことを寅彦は数理的に分析した。その結果、虻が花にくっついた場合、重心が変わり、回転が抑制され、伏せたまま着地する確率は上がることを立証した。漱石の俳句はリアリティがあるということが科学的に明らかになったのである。

あおむけの椿によく出「遇」う

さて、先ほど引用した漱石の『草枕』の文章に出てきたように、確かに椿の花はなぜか眼につき、眼につけば数えずにはいられない。毎日の Feel℃ Walk のときに、どうも椿については Focus して歩かないではいられなくなった。漱石の言うように椿の魔力から金輪際免るることはできなくなったようだ。

冒頭の用水路の椿はあおむけだった。草むらに落ちているのも下の写真のようにあおむけのものが目立った。

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もちろんうつぶせのものもある。しかし、なんとなく散歩がてらに出「遇」った落下椿を数えた場合、あおむけの方が圧倒的に多い。

たまたま通りかかったお寺の参道に散っていた多数の椿の花を見たときは、いよいよ「勘定したくなる」気持ちが抑えきれなくなり、数えてみた。

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すると、上の写真の結果は、あおむけ…32、うつぶせ…16とダブルスコアの差が開いた。半数を大幅に超え3分の2はあおむけだった。

椿の木を下から見上げて写真を撮ると、花弁と生け花の剣山のように何本もある黄色いオシベが見える。

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椿の花は落下する直前は首をうなだれるような感じで下を向いている。ということはそのまま落ちればうつぶせになるはずだ。にもかかわらず、あおむけで落ちているものの方が多い。それは、落ちながら回転してあおむけで着地するものが多いということだ。私は椿が落下する瞬間を見たことがない。空中でくるりんぱと回転して花弁とオシベを上にして「どんなもんだい!」と着地する椿の花を見てみたいと思った。

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知っただけでは終わらない そこから Ferment の始まり

こうして「雑」を集める Feel℃ Walk をしながら、とりあえず落下椿についてはいつも頭の片隅において Focus Walk を続ける日々が続いた。すでに漱石の俳句についての寅彦の研究から「椿の落下」について「知った」のだからもうこれで終わりではないのか。

「椿はね、あおむけで落ちることが多いんだ。それはね寺田寅彦が研究して立証したし、この間ねお寺の境内に落ちていた椿の花を数えてもやっぱりあおむけが圧倒的に多かったよ」

と言えるではないか。しかし、それではただの「物知り」に過ぎない。そこに驚き=Wonderは ない。自然には不思議なことがたくさん起こる。自然が差し出してくれる Wonder への Feel℃=感度を高めるために歩いている。知ったことを踏まえて、わかった気にはならない。そこに面白がる気持ちの根源がある。

椿を探そうと必死に集中して歩くのではなく、いろいろなことに目移りしながらなんとなく日々の Feel℃ Walk を続けている状態。それが Ferment Walkなのではないか。意識の表面には上らずとも密やかに発酵しているのだ。

まずは歩いて体験し不思議だなと思う。次に先行する知に触れてなるほどと思う。それはさらに知を発酵するための「酵素」であって、いよいよこれからブクブクと面白さがジェネレートしてきて、思わぬ何かと出「遇」う驚きに満ちたなりゆきが始まるのである。

ほとんどうつぶせの場所に遭遇

そうしていると、向こうから「じゃあこれはどうだい?」と自然は話しかけてくれる。ある日、法性寺をお参りして、お山の猫たちと戯れて寄り道して家へ戻ろうと思った。法性寺の参道は急な崖際にある。崖は7〜8メートルの高さまでコンクリートで補強されている。その崖上の尾根部分には木々が生えていて、そこに椿の木もあるのだろう。画像6

崖下には椿の花が点々と落ちていた。椿は崖と道路の境目にある側溝にフタをするために置かれたグレーチングと言う金属製の格子の上とその横のコンクンリートのわずかなスペースに落ちていた。一つも道路の上には落ちていなかったのである。

再び「椿数えたいスイッチ」がONになる。家に帰ってしっかりカウントするために、写真を撮り続けた。

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結果は、あおむけ…2、横向き…2、そして、うつぶせは24!

ほぼすべてがうつぶせだったのである。

「市川くん、面白い結果じゃないか。僕のデータは実験室での実験結果。自然の状況ではいろいろな要因が加わるからまた結果は変わってくる。だからこそ常に自然のレコードに耳を傾け、自然の声を聞き、見つめることが大事。それが不思議。思議を超えてわからない部分にいたる面白さだよ」

寅彦先生の声が聞こえてきた。その後ろでは、愉快そうに黙っている漱石先生が腕組みをしていた。

まず気になったのは椿の木の高さ。崖上にあり一気に花が落下するという珍しい場所にある。樹高10メートル近くある椿の木から落ちたのと同様のケースと考えられる。その場合、落ちながらの回転と落下のスピードとの兼ね合いが出てきて、通常の椿のような大きくてもせいぜい数メートルの高さから落ちる時とは異なる結果になるのではないか。

次に、椿の花の落下位置がすべて崖際だったこと。これも通常の落下椿が道路一面に散らばっているのとは異なる。この日もその前日も強風が吹いた。風で吹き寄せられ、その時にあおむきのものはひっくり返されて、うつぶせになったのではないか。風の影響があったことを推測させるように、椿の花のそばには折れた枝の断片や葉っぱがあった。風によって集められたと思われる痕跡があったのだ。

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面白かったのは、一つだけ崖とは反対側の草むらに落ちている椿があったのだが、それはあおむけだったことだ。草むらに落ちた場合と平坦な路面の場合とでは、もし風の影響を受けた場合でも違いがあるということを示しているのだろうか。

こうしてたかが落ち椿から、あれこれ推理が広がる。そして再び Ferment が始まる。またどこかで「発見」がジェネレートする日まで。

落ちた椿の向きがあおむけかうつぶせかなんてどうでもいい。それがなんの役に立つのか。暇なことだと思われるかもしれない。しかし、なんの役に立つかなど考えることなく面白そうだと思うから、観察し、推論し、確かめてみる。これこそが学ぶということなのではないか。

まずは歩く。歩いて気になったら発見の記録となる「知」図を書いてみる。そこからさらに気になったことを追いかけてみる。そして面白いことが溜まってきたらとりあえず表現してみる。そのプロセスに尽きるのだ。

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