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花言葉とやら

花が好きだが、「花言葉」というものがあまり好きではない。

花の単なる外見をもとに誰かの勝手なイメージで決められたものだからだ。

なぜ皆好き好んで「花言葉」を書いたり使ったりするんだろう。どこの誰か知らない人のイメージに則るのではなく、花を摘んだり買ったり、誰かに渡したり飾ったりしたとき、各人が見て感じ取ったそれぞれの花のイメージで良いじゃないか、と思う。

なにかわざわざ「花言葉」に頼っているように感じてしまう。

「花言葉」と検索したら、一番目に秋草学園短期大学の花言葉ページが出てきた。見てみよう。

この中で、アマリリス(Amaryllis)という花を例にとってみる。

この花には花言葉が3つあるようだ。「誇り」「おしゃべり」「輝くばかりの美しさ」。
この中の「おしゃべり」は、”アマリリスの花が横向きにつき、となりの花とおしゃべりをしているように見えることから”だそうだ。
は?
なぜ横向きにつくことで、「おしゃべり」になるかが分からない。科学的に隣の花と向き合うような性質をアマリリスが持つなら良いと思うが、そうではないだろう。となると、単に花の並べ方次第である。アマリリスの画像を検索してみると、他の花と向き合っている画像は見当たらない。むしろ絶妙にそれぞれ横向きの角度なので全然向き合っておらず、むしろ仲が悪そうにすら見える。もしくは追い詰められて互いに背中合わせの状態のようにも見える。「おしゃべり」という「花言葉」を付けた人とそれを広めた人の気が知れない。

「輝くばかりの美しさ」などは、典型的な「花言葉」だ。結局全ての人に好みの花があって全ての花が「輝くばかりの美しさ」であるがゆえに、この言葉は適当が過ぎる。過去に誰かがこのアマリリスに「輝くばかりの美しさ」を感じて、誰かに渡したという出来事があったらそれ自体は素晴らしいが、それが「花言葉」として共通のものに定着している状態に違和感を覚える。

「花言葉」のWikipediaがある。英語(Language of flowers)の他にも多くの言語のページがある。

そしてわりと珍しい例だと思うが、「Hanakotoba」というWikipedia(英語)が上記とは別に存在する。日本語ページはない。

ここの概要文を読んで、確かにいかにも「花言葉」は日本的だと思った。「花言葉」の文化は日本で一番「発達」しているのかもしれない。

ちなみにここにもアマリリスがあるが、意味はShy(恥ずかしがりの、内気な)とだけ記載がある。つまり、アマリリスの「花言葉」は「誇り」「おしゃべり」「輝くばかりの美しさ」「恥ずかしがりの」らしい。この適当感がお分かりだろうか。

「花言葉」が一部に楽しまれているなら別に良い。しかしへんに定着していることになんとも気持ち悪さを感じる。
「花言葉」がそれぞれの花固有の性質に基づいて決められているなら、皆納得しやすいだろう。しかしそうではないので納得しづらく、非科学的な典型例だと思う。一昔前のテレビであった適当な「今日のラッキーカラー&アイテム占い」の類と似ていよう。

日比谷花壇の「花言葉」ページには、366日それぞれに誕生花なるものが割り当てられているページがあった。

花が咲く時期などで多少配慮して各月各日設定しているだろうが、大方適当であろう。自分の誕生日の花を勝手に決められるのは、自分の好みがある人からするとあまり良く思わないだろう。花に興味がなくて、楽して選びたい/選ばれたい人からすれば良い仕組みだろうが。
というわけで、しょうもないページだろうと期待せずに見てみたら、「花言葉」は単に一言書かれているだけで、説明欄にはちゃんと花の名称の由来だったり、花の特徴が記載されていて、けっこう見やすく色々知れて楽しめた。もし「花言葉」のどうでもいい由来がつらつらと書かれていたら、ディスりざるを得ないところだった。

好きな花は何か?ともし聞かれたら(聞かれたことないけど。。)、ぼくはアリウム(Allium)と答えると思う。あの立体的で繊細な形状がとても良い。

東京のどこか

ふと自分の誕生月のページを見たら、信じれないことだが、ぼくの誕生日に割り当てられていたのはなんとアリウムだった。完全なる偶然である。どれだけの確率か。

。。。正直複雑な気持ちである。

誕生日の花を勝手に決められる仕組みは好きじゃないが、偶然にも自分が好きな花が当たってしまった。
イギリスの食は基本不味くて好きじゃないのに、予期せず美味しいものが出てきて、まあこれは良いか、と不覚にも思ってしまったような感覚、、だろうか。

ロンドンのどこか

花は面白い(適当)。

小泉成文


大好きな横浜名物シウマイ弁当を食べる時、人生であと何回食べられるんだろう。。と考えます