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『それでも僕はここで生きる』 #5 友人

5.友人
 ある日、僕は仕事の合間に会社近くの公園で昼食をとっていた。太陽を浴びながら食べる食事は、僕の1日の中でも数少ない癒しとなっている。公園のベンチで、一人、空を眺めていると、いろいろなことを忘れられる。今日はなんだか雲の動きが早い。サンドイッチのパッケージを開けているところに、電話が鳴った。松下真一、僕の数少ない今でも連絡を取り合う幼い頃からの友人だ。僕は食事の邪魔をされたくはなかったので一旦無視し、食事を終えてから、かけ直した。「もしもし」久しぶりに彼の声を聞いた。彼は仕事で海外と日本を行き来しているため、忙しい。「もしもし」彼と久しぶりに話す高揚感から、少し声が上ずるが、必死にそれを察されないように取り繕う。
「おお、元気か?今東京にいるから、今日の夜、お前と飲もうと思って」
「ああ、いいよ」僕は何も予定がなかったので、そう答えた。もっとも、僕が夜に用事を抱えていることの方が少ないのだが。時間と待ち合わせ場所を決めて、電話を切った。
 僕らはいつも、突然こんな風に決めて、適当に会うのだ。大学を出て、仕事をするようになってからは、お互いの仕事の都合上、あまり合わなくなってしまったが、それまでは頻繁に顔を合わせていたものだった。
仕事場に戻り、コーヒーを飲みながら仕事を片付けていると、デスクの電話が鳴った。「もしもし」僕は電話に出た。「今から駅前に来て欲しいの」電話の奥の声が言った。僕は驚きから、黙ってしまった。松下との約束もあるため、僕は断ろうと思った。
口を開こうとした時、電話が切れた。「やれやれ」僕は何事もなかったように仕事を続けた。
また電話が鳴った。さっきの女かと思い、無視していたが、長引くので受話器をとると、松下だった。「すまんな、仕事中に、何度も」其の言葉だけ残して電話は切れた。あまりに一方的すぎる誘いに僕は苛立ちすら覚えた。
僕は仕事が早めに終わり、松下との約束の時間まで時間があったので、あの女が指定したあの公園まで行ってみた。しかし、誰もいなかった。そもそも、何故彼女は僕の職場の電話を知っているのだろう。彼女は確か、非通知だった。僕は彼女を問い詰めたくてたまらなかった。だが、それは叶わなかった。
 時間が来たので、松下と合流した。彼は、雰囲気の良い居酒屋に僕を連れて行った。そこで僕は早速、最近出会った二人の女について話した。
「それは気の毒だな」
松下は他人事だ。彼はいつもそうだ。最初は適当なのだ。
「僕は本当に悩んでいるんだ」
僕は懇願するように松下に理解を求める。まるで言葉の理解できない犬に話しかけるように、丁寧に、そしてゆっくりと。
長い沈黙の後、
「僕はいいと思うよ」
と、松下。
「はあ」
 「結婚だよ」
と松下は続けた。 
「え?」
僕は困惑が隠せなかった。
「その、最初に出会った女の子と結婚しなよ」
松下は譲らない。
「おいおい、本気で言っているのか、他人のことだからって適当すぎやしないか?」
僕は現実を受け入れたくなかった。僕は逃げ場がなくなってしまったような気がした。
松下の誘いに何のためらいもなく乗ったのは、自分の中でもやもやとしていたものを解決したかったからだったのかもしれない。松下は、それをどこか感じ取ったのかもしれない。僕は彼の言い分を真に受けるべきなのだろうか。そもそも、僕は彼女にもう一度会えるのだろうか。
「お前、南、覚えてるか?」
突然思い出した幼なじみのことを松下に聞いてみた。
「南?覚えてないな。俺の知り合いか?」
と松下。
僕はなんとも言えない恐怖感に襲われた。
そもそも覚えているかという問い方が間違っているくらい、僕と松下と関わりの深い人物なのだから。
覚えていないわけがないのだが、松下はきょとんとしている。
僕と南と松下は幼なじみだ。だというのに松下は知らないと言う。
いつの間にか違う話題に移っていた。
「もう出ようぜ」松下が言った。時計を見るともう12時20分前だった。
「そろそろ帰るか」
会計は松下が持ってくれた。僕の心は何故か悲しみに満ちていた。          
遥か遠くの大海原で立っているさざ波も、僕のことをせせら笑っているように感じられた。いっそ遠い森の中に消えてしまいたい。そう思った。
今日ももうすぐ終わり、かけがえのない明日が始まる。

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