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気楽に。

春になるとアスファルトの隅っこや道路脇にも小さな花がたくさん咲くので足元をよく見ながら歩くようになる。
特にムラサキカタバミは本当によく見かける。
見た目の可愛らしさに反してその繁殖力の強さから生態系に悪影響を及ぼす恐れのある「要注意外来生物」にも指定されている植物。
地中の奥深くにまで根を生やして広がっていき、除草しようと中途半端に引き抜くと、残った根から発芽して元の数よりも更に数を増やしていくというのですごい。

とはいえ…可愛いよね。

先日立ち寄った公園ではこんなに群生してた。

たくさん咲いてても可愛いなぁ。
ちなみに花言葉は「心の輝き」「喜び」らしい。
前者はカタバミが仏具や真鍮の鏡などを磨くために用いられていたことに由来していて、後者はスペインやフランスにおいてカタバミの呼称が「ハレルヤ」であることに由来していると。(ハレルヤはキリスト教で、歓喜・感謝をあらわす語)
素敵。

SNSをまた少し見るようになって(とはいえかじりついて見たりはしてないのだけど)、これは前から時々あるのだけど気がかりな投稿を目にすることがある。
何か落ち込んでるのかなとか、元気ないのかもとか。
まぁ大丈夫そうかなと思って様子を見ることもあるし、気になって連絡してみることもある。
どうしたん?なんかあった?って。
実は今日もちょっとそういう投稿を目にしたりした。

私が思うに、悩みや苦しみの原因は一つではないことが多い。
たとえば誰かとの関係で心を痛めていたとして、その痛みの根底にあるのは本当にその人との関係のこじれだけなのかとか、そういう視点を持って自分の心を改めて内観してみるのは結構大事なんじゃないかと思ったり。
何か自分の良心に反することや本意でないことをしなくてはいけない状況があったりだとか、抱えきれないほどのプレッシャーや重圧を抱えていたりだとか…色々何かしらあるんじゃないかなって。
そんなものはあったとて心の痛みとは関係ないのかもしれないし、なんにせよすべてはその人にしかわかりえないことなんだけども。

でももしも生き方や自分の在り方なんかに迷うことがあるのなら立ち止まったっていいと思う。
なんならやめちゃってもいい。
それで失くしたり離れてしまう縁もあるかもしれないけど、別にそれが悪いわけじゃない。
その人の生きる価値はその人の功績や社会的な影響力に左右されるものではないのだから。
少なくとも私はずっとそう思って生きてる。
すごいと世の中で言われてる人をすごいと必ずしも思わなくて。
だからといって自分が何かすごいとかそんなんじゃ決してなく…。
より良くとか更なる高みにというのは素晴らしいことだと思うのだけど、それを達成するかどうかにかかわらず、人は自由だし、みんな等しく価値があって等しくちっぽげだと、そう思っている。

なんにせよ苦しみが自分の手に負えないところにまで行き着いたならいつでも相談してきてと言いたい。
ここにいるし。
まだしばらくは死なないはずだし。(…たぶん笑)
…なんてことを思ったりした。

余計な心配かもしれないけど肩の力を抜いて深呼吸やでー。
気楽に生きやぁ。
と、言ってみる。

ちなみに、いつかも書いたことある気がするけど、気楽に生きやはうちの母方の祖父の座右の銘。
祖父はこの座右の銘のもと、その昔借金作ったり色んなことをやらかしつつも今はデイサービスで「上海帰りのリル」を熱唱したりしながら楽しく生きてる。
笑。

あと、今日はなんとなくニーナ・シモンのAin’t Got No, I Got Lifeを聴いてた。
この曲のタイトル、和訳すると「何もない、いのちだけがある」になるのかな。
お金もない、教養もない、家族もない、愛もないと歌っていって、一転、私には笑い声がある、治癒がある、頭がある、自由がある、いのちがあると歌っていくのにいつも感動する。


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