見出し画像

祈り、飴、手のひら。

さっき、ショパンの『革命のエチュード』を聴いていた。
この曲はロシア帝国によるポーランド支配に対抗して起こった11月蜂起に際して作られた曲。
強い祖国愛を持っていたショパンはそこに参加しようとするも病弱であったためそれが叶わなかった。
当時ショパンはその思いをぶつけるようにしていくつもの曲を作ったとされていて、『革命のエチュード』もその一つとされる。

ロシアによる侵攻への抵抗というキーワードからウクライナのことを少し思い出していた。
まだまだ終わる気配の無い戦争。
戦況を伝える悲惨なニュースも終わらない。

過去に私はまだ平和だった頃のウクライナを旅したことがあって、このnoteにもそのときの話を何度か書いたことがある。
今日はその記事を貼り付けてみようかな。
あ、今、過去記事振り返りキャンペーン中だから。(…毎回キャンペーンのタイトル変わっとるがなというツッコミはご遠慮願います。笑)

『明日に架ける橋』と『手のひら』という記事。
少し長いけど、もし興味があれば。


『明日に架ける橋』(2020年5月の記事)

さっき本棚を眺めていたら目にとまった本。
『ウクライナから愛を込めて』。
日本に留学していたウクライナ人の女の人が自国についてのあれこれを日本語で綴った本。
また読もうかな。

ウクライナは近年、特にここ数年で一気に政情が不安定になってしまったのだけど、そうなる少し前に私はウクライナに行ったことがある。
人に言うと、よっぽど海外旅行が趣味なのかと思われたりするけど、違う。
行ったことのある数少ない外国の一つがウクライナなのだ。

なぜ行くことになったのかという経緯は長くなるので省略。
ざっくり言うとそのとき一緒に住んでいた友人が少し変わった人で(人のこと言えない自覚はある)、一緒に行こうと誘われて、なんとなくのノリで行った。
それも1月の真冬に。

首都のキエフに着いたのは夜で、電光掲示板には−18℃と書かれていた。
ウクライナに入国するとタクシーの客引きのおじさんたちがあちこちから怒号をあげていて、その瞬間一気に別の国に来たことを実感した。
空港からホテルまでは旅行会社経由で送迎の人を手配していたのだけど、それらしき人が見当たらない。
でもよく見てみたらジーンズにジャンパーというラフな格好の若い男性が私たちの名前を書いたペラペラの紙を持って立っているのが見えた。
そのとき、相手を見つけた安堵感よりも何よりもまず、−18℃でもここまで薄着でいられることに衝撃を受けた。(一応ニット帽は被ってたけど手袋はしていなかった)

なんとかホテルに着いて、その後。
旧ソ連の国だけあってか英語が通じない。
最近はどうか知らないけど、少なくともこの時は中高年の人には簡単な英語も通じなかった。
ホテルの前で出待ちしているタクシーの運転手さんに、How much〜?を聞いても、何言ってるんかわからん的なリアクションをされる。
しまいに、乗るんか乗らんのかはよ決めろと怒鳴られて(実際には何言ってるかわからないから推測だけど)、結局滞在中は帰りの空港までの道中以外、一度もタクシーは使わなかった。



タクシーを使わないとどうなるか。
雪に不慣れな人間は雪に足をとられて転ぶ。
有名な寺院に行くにも転ぶ、ボルシチ食べに行くにも転ぶ。
一応、雪道用の靴を履いて行ったにも関わらず、とにかくよく転んだ。

そしてあれは滞在3日目の夜。
前日の夜に雪がたくさん降り積もり、一層分厚くなった雪道の中、道に迷った。
人もまばらな暗がりの中、ここはどこかと彷徨いながらそれまで以上に転んだ。
段々疲れて足が上がらくなってきて数歩歩いては転ぶようになってきた。
不安と疲れとで喋る元気も無くなり、ふと、(私、もしかしてここでこのまま死ぬのかな)という思いがよぎった。
そしてそんなことを思いながら一歩前に進んだその瞬間、思いっきり転んだ。
次の瞬間、友人も転んだ。
思いっきり。

シーン…

ふっふっ……
ふははははははは…!!!
気づけば笑っていた。
お腹が痛くなるくらい。
涙が出るくらい。
笑って、笑って、笑った。
これ何してんのかなって。
このわけのわからん状況何なん、なんで私ここにいるんやろうなって。
つられて友人も笑い出したなら余計におかしさが上乗せされるみたいでいよいよ笑いが止まらなくなった。
雪の中を転びながら笑いまくるアジア人女性二人組。
はたから見たらなかなかホラーな光景やったやろうなと思う。

でも笑った後は奇跡みたいに道がわかってなんとかホテルへと辿り着けた。
本当に奇跡みたいだった。



ウクライナの首都キエフはとても美しい街だった。
中でも、ウクライナ正教会の聖ウラジーミル大聖堂のイコン画が息を飲むくらい綺麗で。
教会の中の空気はピンと張り詰めていて人々は皆熱心に祈りを捧げていた。
涙を流す人もいて…
忘れられない光景。

その当時私は別に明日死んだって構わないくらいの投げやりな気持ちでいっぱいで、自分がこれから何をどうしていけばいいのかわからずフラフラしていた。
だからその教会の雰囲気に触れた時、私はここにいていいのかとすら思い、心は萎縮した。
なんだか申し訳ないような、恐れ多いような気がして…。
でも同時に、その場にいた人たちの信仰心がとても輝いて見え、何か私も信じれるものが欲しいと強く思ったんやった。
神とか仏とかというよりも、私が私自身の中に強く信じられるものが欲しいなと。
そう、思った。




当時の出来事を思い出してたらついでにいろんな感情まで一気に思い出されてきてここまで書いてる手が止まらなかった。


懐かしいな。
今の自分がこのときより少しはマシになってたならいいんやけど。
どうかな。

ホテルの窓から見た朝陽。
飛行機の中で聴いてたSimon and Garfunkelの「明日に架ける橋」が頭の中で再生されて、このままこの景色だけずっと見ていたいと思っていた。



『手のひら』(2022年2月の記事)

昨日少し思い出していたウクライナでの出来事のこと。

私が友人とウクライナを旅したのはかれこれ10年ほど前のことになる。
ウクライナでは空港からホテルに向かうときと帰国のために空港へ向かう時にタクシーを利用した。
と言っても、行きも帰りも車はいわゆるよく見知ったtaxiではなかった。
空港に到着し、そこで待ち受けていたのはタクシーという名の普通の乗用車で、運転していたのは20代後半から30代前半くらいの男性。
服装は超ラフで冬なのに軽装だった。

ちなみに行きのタクシーは旅行会社を介して手配してもらっていたけど、帰りは手配してなくて現地で手配する必要があった。
でもホテルの前で客引きをしているタクシーのおっちゃんたちは英語が通じないし乗る前からとんでもない金額をふっかけて来るのでやり取りが面倒で、ホテルのフロントのお姉さんに頼んで手配してもらうことにした。
でもこのホテルのお姉さんがめっちゃ無愛想で毎回何を聞いてもすんごいぶっきらぼうでずっと怒ってるふうの人だった。
お姉さんの英語がよく聞き取れなくて、何何?って聞いてたら段々イライラし出して、最終的にあっちはウクライナ語混じりの英語、こちらは日本語混じりの英語でワーワーするというカオスな展開になることもあったような気がする(今思い返せば笑えるけど。笑 これもまた思い出やな)

帰路につく日、受付のお姉さんの手配により私たちを空港まで送るためにやって来たのは行きと同様、普通の車に乗った普通のお兄さんだった。
普通というのはあちらでよく見かけるという意味合いでの"普通"で、髪は刈り込まれた短髪で背は180センチ以上はあったと思う。
肩幅の広いがっしりとした屈強な体格の男性。
お兄さんは荷物をサッとトランクに入れてくれ、座席に乗り込むときにはWelcomeと言ってくれた。
もしかして英語を知ってるのかなと思って少し質問してみたらそれには困った風に首を傾げるのみでやっぱりあまり知らないみたいだった。
まぁいいかと、友人と後部座席に並んで乗り込み、その後はカーラジオもついていない車内でずっと無言だった。
友人はウトウトとしていた。

ホテルから空港までは結構距離があり、たしか40〜50分くらいかかった気がする。
私は静かな車中で一人、車窓からキエフの街並みをボンヤリと眺めていた。
そしたらふと、なんだか沸々と言葉にならない不安が湧いてくる感じがあった。
乗っていた車はどう見てもお兄さんの自家用車だった。
そして迎えられるがままに乗り込んだはいいけど、そもそもこのお兄さんが何者かやどこの会社に属してるかとか私は何にも知らない気がした。
これ、大丈夫なのかな…?と。

一旦不安になりだすと途端に、この車ははたして本当に空港に向かってるのかどうかも疑問に思えてきた。
交通標識に書かれたウクライナ語の文字はさっぱり読めないし、来た時は夜で今は昼だから記憶の中の風景と照らし合わせることも叶わない。
ジワジワと不安に駆られる私をよそに、静まり返った車内でお兄さんは表情の読めない顔のままひたすらどこかへと車を走らせていた。

目的地は空港ですよね?まさかどこかに私らを売り飛ばすとか無いですよね…?と、良からぬ想像はさらに膨らみ、段々ドキドキもしてきた。
お兄さんは時々ミラー越しに私の顔をチラチラと確認していたのだけど、その目は心なしかこちらを睨みつけているようにも思えて、そのたびに心臓は飛び上がりそうにもなっていた。
でもそんな私をよそに友人は隣でスヤスヤと寝ていた。
あのときの孤独と不安。
このまま帰れなかったらどうしよう。
けどそれを言葉に出すこともできずに一人その場で小さくなっていたら、とある信号待ちの場面でお兄さんがガバッとこちらに身体を向けてきたのだった。

キャー!!という叫び声はかろうじて心の中に押しとどめた。
だけど次の瞬間、お兄さんのギュッと握られた拳がこちらへぬぅっと伸びて来たときには耐え切れず私はひぃぃぃーっと肩をすくめてしまった。
その様子を見たお兄さんは何を思ったかフフッと目を細めて笑い、握りしめてた手をふわっと開いて私に見せた。

開いた手のひらの上にあったのはポップな色合いの包み紙に入ったキャンディーだった。
キャンディーは二つあり、二人で食べてとお兄さんは優しい目のまま、私の隣に座っていた友人の方に視線を移して目くばせをした。
ああ、なんだ…と一気に力が抜け、慌ててキャンディーを受け取り、「ジャークユ!(ありがとう)」と言うと、お兄さんは軽くうなづいて前を向いた。

あのキャンディーは結局、空港で飛行機を待ってた時に食べたのだっけ。
どんな味だったかはすっかり忘れてしまった。
でも、あのときのお兄さんの優しい笑顔の印象は私の心の中に今も色褪せずそのままある。



このたびのロシアによる侵攻でウクライナでは成人男性の出国が禁止され、戦闘に総動員されることが決まったとのニュースを目にした。
もしあのときのお兄さんが今も元気なら動員されることになるんやろうな。
今どんな思いでいるのかとかどうしているのかとか何を知るよしもないけれど、私を見て笑ったあの瞳とソッと開かれた手のひらを思い出してはただひたすらに悲しくなってくる。
悲しい。

私の見たあの手は戦うための手ではなかったから。
私たちの荷物をひょいと運び、車のハンドルを握り、そして飴を渡してくれる優しい手だった。
あの手にこれからは武器が握られるのかな。
なんてことやろう。
いたたまれない。


…なんとなく思い出すままに書いてしまった。
大抵書いたら少し気持ちの落ち着くことが多いのだけど、今日のこれほどに心が軽くならないことは初めてかもしれない。


何もできなくて。
祈るしかなくて。
でも祈るしかできないのならできる限りの誠実さで一生懸命に祈ろうと思う。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?