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遊び(私の場合、仕事)=お金×時間×選択肢

皆さんにとって、「遊び」とは何ですか?

「遊び方がわからない」
「うまく遊べない」
「遊ぶと罪悪感を感じて遊べない」

そんな声をよく聞くのですが、みなさんは遊びを楽しめていますか?

驚いたことに、日本では「遊び」にはネガティブなニュアンスが強いみたいです。

それはおそらく、幼いころからの刷り込みにより規範意識が芽生えたからなのではないでしょうか。

「いつまで遊んでいるの?」
「遊んでばかりいないで勉強しなさい」
みたいに小さいころから言われて育った人は、大人になっていざ遊ぼうと思ってもなんだか悪いことをしているようで、罪悪感を感じてしまうのかもしれません。

また、遊ぶからにはこれをお金にかえなくては!という義務感にかられて、遊びだとしても無駄は許されない、無駄がないようにコストを回収できるようにと、無意識のうちに頭の中で金勘定がはじまってしまうという方もいるようです。

クリエイティブな活動であればあるほど、打算的な気持ちがあると、きれのあるクリエイティブな活動ができなくなり、余計に焦ってしまうという悪循環に陥ってしまうこともよくあります。

また、「遊び」を考えたとき、それはだれかとするものというイメージも強いのかもしれません。

幼いころは、誰かを遊びに誘うことで遊びが成立していましたよね。
おにごっこ、かくれんぼ、何wするにしても誰かと一緒。
だから、案外、一人遊びが苦手な大人も多いのかもしれません。

そして何より、周囲からの目線によって、うまく遊べないのかもしれません。
遊ぶように働く、耳障りはいいけど、実践するのは難しいものです。
なぜなら、それは一見すると仕事ではないことをしていたとしても、それは「仕事」と自分の中で認知して、周囲の批判をシャットアウトしなくてはいけないからです。

仕事=遊びという構図にしなくちゃいけないと思っているとそれもつらさをうむ原因かもしれません。

確かに、好きなこと、遊ぶように仕事ができればそれはそれで楽しいのでしょうが、実際問題、生きていくために必要なお金を遊ぶように稼げる人はそう多くないはずです。

そもそも、そんなに一生懸命、あなたは遊ばないといけないのでしょうか?
遊びの時間を作らないと何か問題がおきるのでしょうか?

改めて考えてみると、
遊びを成立させるためには、生活基盤としてのお金がすでにあり、遊びに費やした時間に罪悪感を感じない程度には時間的にも余力があり、そして、遊びの選択肢がたくさんあること、これらの必要条件が整わないと純度の高い遊びはできないのではないでしょうか?

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