藤波の花は盛りになりにけり 平城の都を思ほすや君
どこでも住めるとしたら、私は奈良の都に住みたい。奈良が都なんていつの時代の話だよ、と思われるかもしれないが、私はまさに"その時代"に住んでみたい。
そんな私の理想をどんぴしゃで描いた漫画がある。「あをによし、それもよし」という漫画で、現代に生きるミニマリストサラリーマンが、物が溢れていないシンプルな世界に行きたいと願った結果、奈良時代の平城京にタイムスリップしてシンプルライフを謳歌する話だ。(実際は政権争いのごたごたに巻き込まれて苦労するような場面もある)
私は主人公のようなミニマリストではないけれど、主人公が竪穴住居や天然素材の布、無添加の塩に感動し、川での洗濯を楽しむ様子は羨ましい。
近年、人間はあまりにも地球と切り離された存在になってしまったと思う。その恩恵はたっぷりと享受しているし、いきなり文明を取り上げられたら数日も生きていけないのだが、それでも地球の中で人間だけが違う方向を向いていることに違和感がある。
奈良に都があった時代も、既に人間社会が形成されてはいたけれど、人間はあくまでも地球の一部で、自然に神性を見出し、生きるために自然から借り、自身の感情を自然と重ねていた。
今と昔、どちらが幸せか比べるのは難しい。当時の実際の暮らしは苦しいことが多かったと思う。大仏を建てざるを得ないほど天候には恵まれないわ病気も流行るわ、朝廷は血なまぐさいわでなかなか辛い。それでも、そんな日常の中の心の動きも、恋愛も、人の生き死にまでも自然と重ね合わせて歌を詠むような心に憧れてしまうのである。
奈良の都に住むことは叶わないけれど、現在の奈良にも、1300年前に生きた人々の心や都のざわめきがゆるやかに残っているように感じる。
そう思わせてくれるのは、奈良の広々としたゆとりのおかげだと思う。奈良を歩いていると結構な頻度で出現する「何もない」部分がそうさせるのである。
例えば、平城宮跡公園。
春日大社の近くに突如として現れる藤棚。
このようなぽっかりとした空間が、しっかりと場所として存在している。何もないというのは、それだけたくさんの余地があるということだと思う。私にとっては、1300年もの昔に想いをはせる余地。日常から離れる余地。深呼吸して、遠くの山や、草花や鳥に目を向ける余地。
私はこの余地が生み出すゆるやかな時間にずっと前から救われてきた。学生時代、教室の窮屈さから逃れたくなった時。社会人になり、自分のやっていることと自分の中身が嚙み合わなくなった時。奈良の「何もない」空間を眺めて、人が紡いできた悠久の歴史に想いを馳せたり、自然を感じたりすることで、悩みでがんじがらめになった頭をふっとゆるめることができた。
奈良には自然や歴史的建造物だけでなく、カフェや古着やなどのお店もたくさん並んでいる。しかしそれらは相反する存在ではなく、全てがゆるやかな空気にすっぽりと収まってうまく調和している雰囲気があり、その点もとても愛らしいと思う。
地球で生きている以上、地球の一部として、いち生物として存在している自覚を持てる場所に住みたい。地球の一部として生きるということは、自然との繋がり、悠久の歴史との繋がりを感じることかなと自分なりに考えている。そして私は、奈良でならこのふたつの繋がりを感じながら生きられると思う。
最後に、文学作品の中に出てくる奈良に関する記述をふたつ紹介する。私がつらつらと書いてきた奈良の愛すべき部分が短い表現の中にぎゅっと詰まっており、読むたびに嬉しくなるのです。
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