バスケットボールと春の思い出

部活動は小中高とバスケットボールをやっていた。


私がバスケを始めたきっかけは、小学4年生のころに、自分の小学校が拠点となるミニバスケットボールチームが新設されたことだった。(小学校のバスケは、ルールが小学生向けで普通のバスケと細かく異なるためミニバスという) 当時、仲良かった一個上の先輩に誘われて一緒に体験入部した。特に他の習い事をやっていなかった暇な私はその先輩と正式にチームに入部した。
入部と言っても、チームは立ち上げ当初で部員はほとんどいなかった。「設立したてで知名度もなく部員もいないしいる部員も弱いため試合相手がいない」という状態だった。

このミニバスチームを立ち上げたのは、大崎監督という人であった。
監督は、中学時代にバスケの全国大会に出場したりと、根っからのバスケが好きであった。でもこの人は本当にめちゃくちゃな人だった。一番最初に、私に「理不尽」というものを教えてくれた人であった。手こそ出さないものの、とにかく怒鳴る怒鳴る怒鳴る。他のコーチが、引くほどめちゃくちゃ怒鳴る怖い人だった。練習中でも試合中でも、プレーヤーが指示通り動かなかったりプレイミスをするとめちゃくちゃ怒る。練習外でも挨拶や時間にとにかく厳しい。今だったら確実に「怒鳴っているシーン」をSNSに載せられて大炎上するレベルだった。私は運動神経が良くない、というかバスケのセンスもなくて、とりわけ努力もしていなかったので当然ミスばかりしていた。格好の的となりめちゃくちゃ怒鳴られた。悔しさもあったし、本気で「監督死なねえかな」て思ったくらい怒られた。時には理不尽に怒られた。

それでも私がチームを辞めなかったのは、恐らく、バスケが好きだったからではなく、監督に筋が通っていたと感じたからである。監督は「自分の指示通りに動かないプレーヤー」であったら、「上手い人」でも「下手な私みたいな人」でも「男子」でも「女子」でも容赦なく怒鳴る。当然下手な私は怒鳴られる比率が異様に高かった。男子はともかく、小学生の女子にマジで怒鳴るなんて正直頭がおかしいと思った。しかし、怒鳴ること自体の是非は置いておいて、筋は通っていた。

監督は、自分の息子もチームにいたのだが、息子だからと言って贔屓はしていなかった。私が小6になったとき、キャプテンを決める話になった。私と同級生の息子がキャプテンになると思っていたら、監督は違う人をキャプテンに抜擢した。今考えれば当然なのかもしれないが、息子を優遇していなかった姿を見て、「この人はちゃんとしてるな」という風に思った。

話は若干逸れるが、途中チームに、Tコーチが加入した。Tコーチは、激しく怒鳴ることはしないものの、自分の息子や贔屓のプレイヤーを贔屓していた。嫌悪感を覚えた記憶がある。このコーチは監督と揉めて、後にチームを辞めた。

まあ、あと完全に洗脳に近いのだが、たまに褒められるのが嬉しかった覚えがある。こんな感じだったから、保護者や生徒の中での監督の評価は、全否定ではなく、若干「否」寄りのギリ賛否両論だった。(と私は思っている)
チームは、設立からじわじわと練習試合や市民大会で勝つようになり、部員の数も口コミで徐々に増えていった。


ある時、府中のチームと練習試合していた。コートには相変わらず監督の怒鳴り声が響いていた。が、急に怒鳴らなくなったことも、気づかないうちに保護者が悲鳴を上げていた。審判が笛でプレーを止めた。プレー中の私は何事かと見渡すと、監督が倒れていた。監督はすぐに救急車に運ばれて行き、練習試合は中止になった。当時、「下手したらもう二度と怒鳴られることがなくなって嬉しい」という感情も不謹慎ながら湧いていたが、監督の息子でもある同級生が泣いていたため、すぐ我に返った。幸い一命は取り留められたが、脳に腫瘍があることが分かった。

それから監督はサポート的な立場に回り、チームのメイン指導者はKコーチというお兄さんになった。監督自体は治療をしていて、治療している頭部を隠すためニット帽をかぶっていた。保護者も私たちも当初は色々心配したが、ぶっ倒れたのにもかかわらず怒鳴る監督の姿を見て、すぐにその心配は吹き飛んだ。といっても、さすがに以前よりは威勢は弱くなっていた。

それから月日が経ち、小6の私たちは引退試合を終えた。引退後、練習に顔を出したとき、「監督」と「プレーヤー」というくくりがなくなり、こころなしかやっとすこしまともに話せた気がした。
メンバーで唯一中学受験をしてしまった私は、他の人たちと別の中学校に入学することになった、のだが、4月の頭に監督の訃報が入った。喪服などない私は、中学の制服で葬儀に出席した。私にとって、監督の死は人生で初めて「自分と関わった人が亡くなった経験」だった。監督であり、友達の父親。同級生でありチームメイトでもある監督の息子は泣いていた。当時、死を予感していたものの、あることとして思っていなかった私は悲しみより驚きが勝っていたのもあり、泣かなかった。


毎年、この春の季節になると大崎監督を思い出す。
監督が亡くなってからいろんなことがあった。
監督が創設したミニバスチームの規模は、どんどん大きくなっていった。そしてこの前、監督の跡を継いだKコーチと共に、ミニバスチームは全国大会に出場した。それはなかなかとんでもないことだ。監督が存命でなかったことが悔やまれる。
その後、監督の息子は父親と同じく中学バスケの全国大会に出場を果たした。本当に亡くなられたことが残念である。あの鬼監督がどのような感想を残し、どのようなことを言うのか、知りたかった。
美化しているわけではなくすべて事実である。本当に事実にしては気持ち悪いほど出来すぎている。いつか誰かに映画化してほしいくらい。

私が芸人をやっているなんて知ったら、恐らく監督は驚くだろう。
毎年、先述の「僕と一緒にチームに入ってバスケを始めた小学校の先輩」と命日に挨拶に行っている。一番怒鳴られて、当時怖かったし、今でもバスケは好きではないが、「怒鳴られた仕返しの如く」毎年挨拶に行っている。今年は例の影響で挨拶は見送ったが、思い返しておくためにこのブログを書いた。監督には良し悪し含めいろんなことを学ばせてもらった。今でも感謝している。

中高のバスケも上達こそしなかったが、試合に出させていただいたので楽しかった。引退して、高校を卒業した後に、マネージャーと同級生の部員が付き合っていたことを知った。

バスケを通していろんなことを学んだ。
来年また挨拶に行きます。


こんな奴に投げ銭するくらいなら、高めの飯食った方がいい。