咲き切ってこその、美しさ。
何歳まで生きるかわからないけれど
「人生の後半に入った」と意識した日から
10年が過ぎた
そのときから
人生においても仕事においても
はっきりと折り返しを意識して
生きてきた
人生の後半をどう生きるかを
その時に決めた
…
「人生100年」
全くピンとこない
自分にはそんなに生きるイメージがない
(結果として生きるかもしれないけれど)
…
6つ歳の離れた姉に
「きっとお姉さんの方が長生きするよ」と言うと
「そうかもしれないね」と姉も返す
どれくらい長く人生を生きるか
人にはそれぞれのイメージがあるのだ
私はゆっくりと生まれてきて
足早にこの世を去るのかな〜
と自分のことを思う
(湿っぽい話でも何でもなく)
今となっては
10年前にあると思った後半の人生すらも
ただ一般的な想定にすぎなかった
と気づく
*
何歳まで生きるかはさておき
この人生に残された私の仕事は
夫を最後まで世話することと
娘が子どもを産むことになれば
手助けをすること
そしてもう一つ
自分自身の残りの人生を楽しむこと
私がよりよく生きることは
娘のためでもある
人生は楽しむ価値のあるものだってことを
知ってもらう
娘はどんな人生を送るのだろう
見届けたい
見守りたいという気持ちもある
(うん、長生きせんと)
*
世話になっている年配の女性から
「子どもは可愛いでしょう?自分の作品だものね」
と度々いわれる
失礼のないよう
「そうですね。可愛いです」と答えるが
娘を作品だと思ったことは一度もない
私は確かに娘を産んだけれど
娘は私のモノではない
生まれてきた娘はその瞬間から彼女自身であり
初めからずっと彼女自身を生きている
*
私はもうしばらく生き
生きているうちは
何歳になっても新しいことに
挑戦しようと思う
ただ
「もうひと花咲かせよう」とか
「今から人生を成そう」とかいうのは
少し違う
花には時期というものがあり
私のその時期はもう過ぎた
*
娘や未来のある若い人達を
眩しくみる
まだほんの少し
解けはじめたばかりの蕾のよう
例えようもなく愛らしい
でも
花には咲き切ってこその
美しさがある
思う存分
自分を咲かせてほしい