見出し画像

父のガン、そして死 その1

昨年の終わりに、父が亡くなった。

我が家は、父が母をグーパンチで殴るようなDV家庭であり、私が幼少から始めたスポーツでも、スキーでも水泳でも、暴力や暴言を含む人権侵害を交えての指導しかできない父と私の関係はとても複雑だった。それでも、父が亡くなった時、私は赤ん坊のようにオイオイ泣いた。

昨年10月の最終週にレイオフを言い渡された私。それと時期を同じくして、父がガンだと診断された。

父のガンは膀胱がんで、一般的に比較的予後が良いガンとして知られており、本人も私達家族ものんきにかまえていた。その時に交わした父とのラインメッセージ、父の返事は「まだ元気だ、心配するな」だった。

私はアメリカにきて15年、仕事をしなかったのは離職や今回の失業などの時だけであり、いつも働いている。アメリカに来てからは、日本にゆっくり帰れることはめったに無いため、父のガンというよりは、降って湧いた日本への長期間帰省の機会を利用して日本に帰ることにした。

11月の初めから、12月中旬に予約してあったディズニークルーズに合わせて帰ってこられるように、1ヶ月滞在するスケジュールでチケットを取った。日本に帰るまでの間に家族から父の病状が当初思っていたよりも悪い事を聞かされながらも、少数の人たちに父のガンの事を話すと、「今は、ガンで死ぬ時代じゃない」「膀胱がんやった人知り合いに何人かいるけどみんな元気にやってる」などというポジティブな感じだったので、きっと大丈夫だろうと根拠もないのに思っていた。

日本に帰ると父は1週間の予定の「検査入院」をしていた。病院側と母や妹と話して、父は、私達が当初思ったよりものすごく悪いと知る。父のガンは、珍しいタイプの進行が早いガンで、オマケに手術で取ることはできないガンだと判明した。私は無知だった。今考えてみれば簡単に想像ができそうなものだが、私はそれまでガンには色々な種類があることに気づいていなかった。治療法は抗がん剤だけだとされた。

しかし、父は持病があり、何十年もの間、痛み止めを含む膨大な量の薬を飲み続けていた。それにより父の腎臓の数値は腎不全寸前の状態であり、腎瘻をして、腎臓の数値の改善を試みたが数値は上がらず、抗癌剤治療もできないという結果だった。

私が日本に帰って3日目くらいに父抜きで医師と話した際に、父の余命はおそらく1ヶ月と告げられた。

余命は、私が1人で医師と話した時に告げられた。病院の方針なのかなんなのか、何事もハッキリと言わない担当医だったので、私とサシで話したあとに父が部屋に呼ばれ、私と父でもう一度医師と個室で話した時に「先生、正直なところ、どうですか?あと3ヶ月かな?」という父に、医師はあいまいに頷いただけだった。

父は、抗がん剤でもなんでもとにかくできる治療はしたいという意向だった。腎臓が悪いというのが抗がん剤をできない原因なので、自分はものすごくいい保険に入っているから、腎臓移植などはどうか?というすっとんきょうな質問を医師にぶつける父が不憫で私はずっと泣いていた。(がん患者への腎臓移植はできないでしょうと医師は答えた)

治療法がないという現実を受け止められず、父はセカンドオピニオンを取りに癌研に行くことを希望した。本当は、癌研でのセカオピなんて何ヶ月待ちという世界なのだろうが、なんと運良くすぐにセカオピをもらいに行けることになり、父は痛みを我慢しながら出向いた。妹と母が同行したが、癌研の先生がはっきりと、できることはないと言われ、それでも抗がん剤をやりたいと言う父に、この腎臓の数値で抗がん剤をやったら死期を早めますよという決定的一打をもらい、やっと納得がいったようだったとのこと。

父は、自分が死ぬのだと言うことが現実になり、それなら今すぐ薬で殺してほしいと言ったと聞いて私は涙がとまらなくなった。

「治療」をできない事が確定したので、治療をする人だけしか入院できない一般病院をさらなければならない。ここから先はいわゆる緩和ケア。妹が自宅からチャリで行ける距離にあるホスピスをみつけ、手続きや面談などをこなし入院する。

が、しかし、入院2日目に家に帰ったらどうかと提案され、アワを食った。

のちに知るのが、緩和ケアの病院には2タイプあるのだということ。

タイプAは、本当に末期の末期、1~3週間での死亡が予測できる人だけを手持ちのベッドに「入院」させ、それより長そうな人は、その状態になるまで自宅療養で外来で通ってもらう。こうすると、ベッドのターンオーバーが高くなり、保険の点数も稼げ、ボトムラインが上がる。(=儲かる)病棟はピカピカで儲かってる感ハンパない。

タイプBは、色々な事情で自宅での療養が難しい入院希望者は、空きがあればなるべく入れてケアする。父が入ったところはアットホームで、病棟は古く、慈愛の精神を感じた。ここで最期を迎えることになる。

父は、最初タイプAの病院に入院してしまったため、72歳と若いこともあったし、まだ自分で歩いたりピンピンしていたので、自宅療養+通いを勧められたのだった。これはやっと見つけて苦労して入院させたホスピスから追い出されるような感じで私達家族に多大なストレスをもたらした。他にも色々、不可解でやばい感じがしたので、入院4日目に「この病院ダメだわ」と判断して次の入院先を探して、タイプBの病院に移ったのである。この病院を去る時に、看護師からありえない言動などがあったため、しかるべき機関に報告しようかと思っている。

病状が悪化して死後までのことはその2で詳しく書こうと思うが、父はガンと診断されてから2ヶ月もせずに亡くなった。持病のため、常に具合が悪い毎日だったので発見がだいぶ遅れてしまったこと。進行が早いガンだったこと。手術もできず、そして腎臓の数値が悪すぎて抗がん剤ができなかったことが原因だった。癌にならなくても、腎臓が限界だったかもしれないと医師は言っていた。

今もまだ、父が亡くなったのだと言うことが信じられない気持ちでいる。そこらの若者よりラインの返信が早かった父。ラインをしたら、またすぐに返事が来そうな気がする。その一方、父と今まで交わしたラインメッセージを読み返して涙する日々である。

冒頭で述べたとおり、父と私の関係は不運であった。父は絶対にサイコパスだろうと思っていた。正直、死んでくれと思ったことが何度もあった。私達家族は父から暴力・暴言のシャワーを浴びた。母を殴ろうとする父を止めに入って、頭を壁に打ち付けられたこともある。自分より弱い者に暴力をふるう父を「尊敬していない」と睨みつけて宣言したこともある。歳を取るに連れ丸くなり、孫が生まれてからの父は、信じられないほど良いじーちゃんになり、よくかわいがってくれ私を助けてくれたが、それでも根本的な暴力性とか、無知だとかが顔を出し、嫌だと思う部分は沢山あった。

だけど、最期を迎える父に対して思ったことがある。

He did the best he could.

父は、彼の生い立ちの与えられた環境の中で彼の知識、感性、考え方を学び、彼の持っている長所短所(Skillfulness)の上での最善をつくしていたと。

今までの不幸な関係も、悪意があってそうしていたのではない。父の家族を見ていると、他者の愛し方を知らなかった、知らずに育ってしまった父もまた不幸だったのだと思った。だから、父は孫を持って、子供を育てた時の反省を活かし孫には好かれているじいじだったし、子供の教育の話になると、「俺がやったような失敗はするな」と私達子供にした仕打ちを謝罪してくれていた。

Dr. Brene Brownの著書「Rising Strong」(邦題は「立て直す力」)の中で彼女は人々が最善を尽くしているかという考えについて記している。私が父をそう思えたのも、この本を読んだ(聴いた)おかげだった。

そして、それは私も同じだということに気づいた。生きていれば失敗もある。人を傷つけてしまうこともある。恥ずかしい事も沢山してしまう。だけど、私達はみな、私達なりの最善を尽くしているのではないかと思う。

父との壮絶な関係を今まで負の産物だと思って黒い感情を持ってきた私は、この結論に達したことはとても大きなものだった。

ただ、勘違いしないでほしいのは、こういう結論に至った私が「えらい」とか、「やっぱり親だから」とか思ってほしくない。私はただただ、父の最期にそう思えるくらいに恵まれていただけだ。こういう結論に至れない人は世の中に沢山いる。とうていこんな風には思えない人がいる。それは、その人達のせいでは1ミリもない。どの結論も、それは私達一人一人が自分で決めることである。私と同じ結論に達しなかった人には、それだけの理由があるのだということを付け加えたい。

その2に続きます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?