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父のガン、そして死 その2(終)

昨年終わりに、父が亡くなったことを昨日かいた。この記事は、父の最期に関しての記述があるので、苦手な方、不快になりそうな方は、ここから先は読まれない方がいいかもしれません。

父は一般病院を出て、1軒目の緩和ケアのホスピスに居る時から、食欲もだいぶ落ちていて、散歩の時にまっすぐ歩けなかったり、ベッドに横になって寝ている事が増え、また喋っているかと思ったら次の瞬間にグーグー寝入ってしまったり、着替えの時に尻もちをついたりし始めていた。それはすべて、ガンが進行しているサインだという事だった。

父の状態は次のように進んでいった。

余命宣告

ピンピンして、散歩や買物も普通にできるが、食欲が落ちる

着替え中に尻もち、まっすぐ歩けないなどの症状が現れる

耐え難いほどの眠気が襲っている様子、喋っていたかと思うと次の瞬間寝入ってしまう事が出てくる

眠っている時間が増えてくるが、起こされれば指定された時間の薬は飲める

飲まず食わずでほぼずっと寝てる、薬も飲めなくなってきた

2軒目のホスピスに入院してから1週間後の週末に自宅に外泊で帰るのを父は楽しみにしていた。ところが、その週末になり、兄夫婦と母が迎えにいったはいいが、父はグーグー寝ていて全く起きないという事態に。朝迎えに行って、外でランチして帰宅する予定が、父が起きるのを夕方まで待ったが起きないので、母が外泊を取りやめるべきか看護師さんに相談すると、おそらく「最後の外泊」になると思うから、連れて帰ってあげてと言われ、兄が抱えるように父を車に乗せて帰ってきた。

帰宅後は父のソファの定位置でずっと寝ていた。コンコンと寝ているので、薬を飲ませるために起こすのもかわいそうで放置。次の日の朝、熱がある様子で、あまりにも寝ていて痛み止めの薬も飲めていないので、まずいのではないかと思い病院に連絡。すぐに戻ったほうが良いとアドバイスされる。ほとんど意識がないので、私が父を前からガバっとハグする形で抱えて車に乗せて病院に戻った。私はぎっくり腰が悪化。父はまったく歩けない状態だったので、おんぶしようとすると、声にならない声で拒否したので、そこまではうっすらと意識があった様子。父を運ぶのが本当に大変だったので、もう自宅での外泊はできないと家族で同意。

外泊を終えて病院に戻った翌日、朝病院から連絡があり、話しかけてももう反応がないので、なるべく病室にいてほしいと言われる。要するに、いつ逝ってもおかしくないということだ。医師から話があり、おそらくガンが脳にまわって、脳梗塞になったような感じになっているから、もう反応はできないだろうとのこと。父はゴーゴーと大きないびきとしゃっくりをしながら寝ていた。

看護師さんからも、もし会わせたい人がいるなら後回しにしないほうが良いと言われる。この日から母は病院に泊まり込み始め、昼間は母が用事をする間は家族で交代交代で病室に誰かしらいるようにした。

その次の日の夜、父にせん妄が出た。せん妄とは、要するに脳と体が分断してしまい、末期がん患者の場合、痛みと居心地の悪さで意識はないのに立ち上がったりしてしまうとのこと。グースカ寝ているだけだった父が、看護師さんがケアのために体を動かしたのをきっかけに意識がないまま「起きて」しまい、看護師さんに支えられながら何度も立ち上がり、脚が耐えられなくなるとベッドに座り込むというのを繰り返していた。ちょうど、兄といとこ、おじがきてくれていたので、母と私たち姉妹は子供を連れて買い物に出ていた。病室に戻ると父が無表情で立ったり座ったりを繰り返していた。

意識がないまま、目も半分しか開いていないような状態だったが、何度目かのある時、父の視線が娘の方をみたと思ったら、娘をゆびさして、くぐもった声で娘の名前を呼んだ。私は人目もはばからずに号泣した。これが父が発した最後の言葉となった。

しばらくして体力的に無理になって父がウトウトひと休みしているとき、看護師さんからせん妄に関しての説明があり、最期を迎える人たちは、痛みだけではなく、「身の置き所がない」というフィーリングがある事から、動いてしまうのだと知らされ、私はとてもショックを受けた。

立ち上がったりするのをやめてからは、うんうんと眉間にシワを寄せながら寝返りを打ったり、不快なのがわかる。ホスピスとは、穏やかに、痛みを感じず、最期を迎える場所だと勝手に思っていた。とにかくどうにかしてあげたかった。

私達家族は、鎮静を選んだ。

鎮静とは、麻酔のような強い薬で眠らせるということ。そして、鎮静したら、意識を取り戻すことはおそらくないという意味である。

しかし鎮静を選んだその後も、鎮静剤も痛み止めも、「前回の投与から何分以上あけなければならない」という時間の縛りがあり、父が苦しそうにしていても後手後手でしか投与できない事を知り、私は尊厳死、安楽死、自殺幇助へのアクティブな賛成派になった。自分の最期を自分で決める権利があったほうが良い。父のつらそうな様子をみていて、そしてそれを見る家族の心痛を見て、私だったら、この時点で終わりにしたいと思った。

それから5日間、父はいびきをかき、しゃっくりをし、時々私達の呼びかけに反応するような様子を見せながらも、意識なく眠り続けた。

兄夫婦と妹はフルタイムで働いているし、姪は遠方の学校に通っているので、みんなが病院に来られる日と来られない日があった。そしてみんなが病院にいても、父の病室が狭いため、いつもは1~2人を病室に残してバラバラに談話室や売店に行って時間を過ごしていた私達家族だったが、姪が遠方の学校から帰ってきたので、たまたま全員病室でぎゅうぎゅうになりながら、妹が買ってきてくれたサンドイッチをあーでもないこーでもないみんなでワイワイ言いながら、父のことはある意味そっちのけで食べている時に、父はしずかに息を引き取った。

父が世界で一番愛していた2人の孫を含む彼の直属の家族が、めずらしく全員たまたま病室に揃ったちょうどその時、父は旅立った。愛し方が不器用だったが、本当に家族が好きだったのだなぁと感じた瞬間だった。

私はオイオイ泣いた。人間として、父として、娘をかわいがってくれたじいじとして、父が亡くなったことが不憫で、悲しかった。「生きたい」と願っている人が生きられない事が、ただただかわいそうで、どんな気持ちだったかと思うと、やるせなかった。

人間は最期まで耳は聞こえているらしい。父が鎮静されてからも私達はよく話しかけていた。私は、家族が誰もいない瞬間を見計らって、父の手を握って父に話しかけた。

今までありがとう
今までのことは全部許しているよ
感謝しか感じていないよ
本当にありがとうね

娘の学校や習い事の話をすると、「楽しいのが一番、俺がやってしまったようにはやるな」と自戒し、謝罪めいた事をいつも口にしていた父へ、意識があった時に言いたかったなあと思った。

私にとって、父の存在はとても大きなものだった。40代にもなって、別家庭になって、アメリカでキャリアを積んで自立しているのに、「父が怒るのではないか」とか、「父になにか言われるのではないか」と心配するような、そのくらいの影響力がある人であった。その人がいないという事がまだ信じられない。

それと同時に、人の死がどれだけ突然やってくるか。人がどれだけあっけなく死んでしまうか。大きな大きな存在だった父の死は、有限の時間を無駄にしてはいけないと改めて教えてくれた。

今回父の死について、詳しく書くことを迷っていた。

だけど、これを書くことで、自分の幸せを追求することにブレーキをかけてはいけないと学んだので、周りの人の背中も押したい。それから、1がん患者がどうやって最期を迎えたか、どなたかの参考になることもあるかもしれないと、オープンに書くことにした。

私の父の死が、誰かが「生きる」ことへの原動力になったら幸いです。

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