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遠雷


 米寿の祝いは恥ずかしいからやらないでほしいと母は言った。昔から照れ屋で人の中心になるのを嫌がるところがあった。当時八十八歳の母は、父が二十年前にこの世を去ってから、一人で暮らしてきた。幸い私の住むところからも近く、孫の顔を見がてら行き来があった。多くの友人とのおしゃべりを楽しみ、教師をしていた時代から続けていた機関紙を作り、絵を習い、映画館に足蹴く通っていた。家事は昔から苦手な人で、私が通いで行った。義理の母の世話もあったので、毎朝おかずをタッパーに詰めて、通学途中の息子に母と義母に届けてもらっていた。息子が届けた方が喜ぶからだ。つかず離れず、母と私は程よい距離で暮らせていた。

 気にかかることは二つ、「怪我」と「夏」だった。

 60代で手術した乳がんは再発することなくきたが、160センチで40キロもない細い母は、骨がもろかった。これまでに大腿骨骨折を1回、背骨の圧迫骨折を2回していた。その度に入院、時に手術、リハビリを経てまた元の生活に戻ることができた。普段ちゃんと歩く生活をしていたのだろう。しかしいつまた怪我するかは常に私の頭にあった。

 もう一つが「夏」だった。ここ10年の日本の夏の暑さは尋常ではない。風通しの良い古い日本家屋でも、クーラーを使わなければ、30度を軽くこしてしまう。母はクーラーを嫌がった。何度も促したが訪ねる度に、古い扇風機が熱風をかき回している状態だった。

「熱中症で死んじゃうわよ」
「風邪ひいちゃうわ、クーラーなんて」

と返されたらもう何も言えなくなった。

 その年の夏、やはり近くに住む義母が病に倒れた。わかった時には末期の癌だった。手の施しようがなく、点滴など最低限のことを入院して行い、あとは自宅で看取ることとなった。夫やその兄の強い意向があってそうしたが、実際の世話をするのは義姉と私で、戸惑いもたくさんあった。義母の家に通いながら、自分の母の事までなかなか頭がまわらなかった。夜帰宅して電話を一本かける余裕がなかった。

 母は義母とも仲が良く、「お茶のみ友達」であったから、義母の弱っていく様子もショックだったようだ。母の気持ちは充分にわかっていたが、労わる余裕をなくしていた。

 年末に義母が亡くなった。四十九日を過ぎてようやく自分の母の方に気持ちを向けることができた時、痩せている身体がさらに小さくなっていることに気がついた。話がかみ合わないことを感じることもあった。この半年は母にとっても孤独でつらい時間だったのだやっとわかった。白内障の日帰り手術を受けるとき「いつ最後にお風呂に入りましたか」という医師の問いに、「思い出せない」と答えたことが私の心に刺さった。

 春を迎えて義母の納骨が済んだ。きちんと母の今後を考えなくてはいけないと思っていた時、「腰がものすごく痛い」と母から電話があった。駆けつけると、ベットから起き上がるのもできない様子だった。

「ミシンを持ち上げた時、痛めたみたい」私は「あっ」と思った。裁縫が得意な母に、息子の制服の裾上げを頼んでいたのだ。母のミシンは古くて重い。それを持ち上げた時、激痛が走ったと言う。

 自分を責めた。翌日一番で病院に連れていくと、腰の圧迫骨折をまた起こしていることがわかった。3回目の圧迫骨、即入院。今回ばかりはまた元気に歩けるようになるとは思えなかった。ベッドに固定され寝たまま食事をする姿が痛々しかった。息子は寝ている母を見て「随分小さくなっちゃったね」と悲しそうに言った。恐らく退院してももう一人暮らしは無理だろう。

 夫に同居の話を持ち出すと、それとなくはぐらかされた。やはり一人で暮らしていた義母の生活を私も支えてきた自負もあった。そして最期を看取ったのだから、勤めを果たした気持ちでいた。何とも言えない気持ちでいると、

「親父はまだ自分の母親が亡くなったばかりだから、頭が整理できてないんだろ」

 高校生だった息子が大人びたことを言った。少しだけ救われた気がした。

「坂の途中のホーム、空いていないの?」

 我が家からほど近いところにある老人ホームだった。都内とは思えないほど緑豊かなところにあり、庭に花壇や畑がある。土いじりが大好きな母にはあっている気がすると以前話したことがあった。

 「老人ホーム」と言う言葉を母の前で口にすることがなかなかできなかった。しかし母がベッドからようやく起きあがれるようになった頃、母の方から「老人ホームに入ろうと思う」と言ってきた。母は私に入院中の下着を洗わせることさえ嫌がっっていたのだ。

 母がいやではなかったのだという安堵と、言わせてしまったという苦しさと、複雑な想いのまま、私は見学に行った。職員の方たちの優しい雰囲気と、清潔な室内、整った設備、感じたままをそのまま母に伝えると

「申し込んできてほしい」

と言った。そして退院したらそのままホームに入所することになった。

 退院当日、母を迎えに行くと、きちんと身なりを整えベッドに腰掛けている母がいた。緊張と不安の入り混じった顔を私は一生忘れることはないだろう。母はホームにつくと一通り職員の人に挨拶をし、新しい自分の部屋で少し緩んだ顔をみせた。
 窓の外に、大きな八重桜の木があり、見事に咲いていた。いい部屋を選べたねと話した。その後、その木が季節ごとに緑や紅葉も楽しませてくれている。
 昼ご飯が提供されると
「あたたかくて本当に美味しい」
と言った。夕飯はリビングで皆さんと食べますよと説明されると笑顔になった。私はばたばたと母の荷物を片付けたり、手続きをしていた。
 母は私の家のことを心配して、

「もう帰りなさい」

と言った。気が付いたらもう夕方だった。高台の3階の部屋は眺めがよく、茜色の雲が広がっていた。暮れていくと、羽田空港に着陸を待つ飛行機の灯りがたくさん見えた。

「いい部屋で、安心したわ。眺めが最高ね」
「そう、よかった。困ったことがあったら職員の人に話してね」

 明日もまた来ると告げ、ホームを後にした。家までは15分でついてしまう。

 その夜、母が眠れているか心配しながら床に就くと、犬が吠えだした。耳を澄ますと、遠雷が聞こえてきた。吠える犬をなだめながら知らぬ間に眠りに落ちた。自分が思うよりずっと疲れていたのだろう。

 翌日、母が
「昨日、雷が遠くにすごく光っていたのよ、窓からずっと見ていたの」

と言った。

「うん。かなり遠くだったけどね。この窓から稲妻が見えたのね。」
「あなたの家からも、音が聞こえたの?」

 車で移動し入居した母は、ホームと私の家が近いということがよくわかっていないらしい。
「お母さん、うちはね、ここから歩いて近くよ。昨日タクシーで来たからぴんとこないのね。とにかくすぐそばよ」
「そうなのね」
「もう少しよくなったら、外出しましょう。うちまで歩けるくらいにならないとね」

 昨日と同じように、早く帰りなさいと母は言った。
そして、
「雷三日っていうのよ」
と。

 雷は一度鳴ったら、三日は続くということを、幼い頃母からよく聞かされていた。
 その夜、また、遠雷が聞こえてきた。窓辺に立って母は見ているのだろうか。

 私はその時、初めて声をあげて泣いた。