使えない先生

そんなこんなで一学期がスタートした。おそらく、教育現場に懸念を持つほとんどの社会人の方がそうであるように、俺も自分なりの考察ややりたいこと、課題意識がうごめいていた。そしてそれをどのように、どうしたらいいのかを考えていた。

が、

背の順がわからない。これが最初の壁だった。挨拶も済んだ、子どもたちとも出会った、そしてこれから体育館で式が始まる。でも、並び方がわからない。なんだそれは、と思うかもしれないけど、わからない。まるで抜け落ちていた部分。教室から、体育館に行くには、並べないといけないんだ。そしてその並び方は自然発生するわけなく、こちらで作って、伝えて、練習する必要があるんだ、ということにその時点でようやく気づく。
気づいた頃にはもう遅く、他のクラスは、とっくに体育館についている。我がクラスだけが廊下でわちゃわちゃしている。こんなもんである。
Teach For Japanの最初につけていたプログラムの名前は、「Next teacher program」だった。ネクストティーチャーは、子供を並ばせることすら出来ない。お笑い草もいいとこだ。つまり、そういうことなのだと思う。頭でっかちに、教育の理想を考えているのとは裏腹に、目の前で子どもたちに次のことを指示する必要がある。なんてったって、8歳だ。8歳が23人。ネクストティーチャーなんて言ってる場合じゃない。まして家庭環境や認識能力も様々な子たちに対して、必要なスキルは頭でっかちな理論じゃなくて、今この子たちを体育館に連れてく方法だ。これが、実際の現場だ。こういうことの中に先生は生きている。子どもたちも生きている。理想はいい。とても必要だとも思う。でも、こういう現場の中に先生たちは生きている。給食をこぼすこともある、消しゴムを隠されることもある、ちょっかいを出し続ける子もいる。これが現実に起きてることだ。理想論では、背の順は出来ない。それを踏まえて、何を、どう変えていくのを考える必要がある。全てのものが一気には変わらない。じゃあどうする必要があるのか?一つだけ言えるのは、俺は間違いなくあのとき、ただの使えない先生だった。

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