なぜノートの最初のページはきれいに書くか。

 noteを始めてみてよ、と職場の先輩であるIさんに言われた。何かを企んでいる顔をしながら言ってきた。どうやらなにか面白いことがしたいらしい。Iさんは、自分自身がまず娘さんにTwitterとInstagramを教えてもらったと報告してきた。そこまでやられたら、僕もやるしかない。

 とはいったもののの、この数日下書きを書いては消し、書いては消し・・・という作業を繰り返している。本当に自分は国語の教員なのか、と自分を疑う。そのときに、ふと思う。なぜここに書く人たちは、こんな生き生きとした文章を書けるのか。こんなにも文章を楽しそうに書けるのなら、国語の時間にも楽しく書いてくれたらよいのに。少しばかり嫉妬した。

 「書く」ということは「自己内対話」だということを、国語の授業で生徒に伝えている。内なる他者と議論しながら、文を作り上げていく作業である。今、僕が書けないのは、この「内なる他者」(授業では『遊☆戯☆王』を引用し「もう一人の僕」と言っている。それが伝わる生徒は、40人中1人いればよいほうだ)が、厳しくなりすぎているからではないか。それはちょうど、新品のノートの1ページ目をきれいな字で書くのと同じである。もう少し、ゆるく考えてもよいのではないか、と書き始めて1週間が過ぎた今思えてきた。「もう一人の僕」も疲れてきたのだろう。

 とにかく、自分のなかの「書く」ことのハードルを下げてみようと思う。ひとつひとつの質はさほど高くなくても、それらがどこかでつながってくるかもしれない。断片的な思考でも、このノートに書き留めていこうと思う。

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 


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