牛肉を愛した偉人たち ⑨・内田百閒
内田百閒は1889年(明治22年)、岡山市に裕福な造り酒屋の一人息子として生まれる。別号百鬼園。第六高等学校(現在の岡山大学)を経て、東京帝国大学独文科卒。二十一歳の在学中に漱石門下の一員となり、芥川龍之介、鈴木三重吉らと親交を結ぶ。
祖母や母に溺愛されて育った。丑年生まれだったので、牛の玩具をたくさん買ってもらったが、そのうち、「本物の牛を買ってくれ」と言いだし、とうとう牛を買ってもらった。座敷に近い庭に牛小屋を作って、十数キロ離れた農家から黒い牡牛をひいてきた。わがまま放題で頑固、偏屈、無愛想な性格だったと言われる。後学のドイツ文学者の高橋義孝は「クソジジイ」と呼んだ。なにしろ百閒は玄関に「世の中に人の来るこそうれしけれ とは云うもののお前ではなし」と張り紙をする人である。これは蜀山人の狂歌「世の中に人の来るこそうるさけれ とは云うもののお前ではなし」のパロディーらしいが。こういう諧謔なものを見せられたら、おもわず踵を返すしかないだろう。
百閒の『御馳走帖』収載の「薬喰」から。
私の家は造り酒屋だったので、酒倉が穢れると云って、子供ときは牛肉を食わして貰えなかった。四脚の食べ物は、一切家に入れなかったのである。だから本当の味は知らないけれども、大変うまいものだと云う話は、学校の友達などから度度聞いて居り、又たまに夕方など、人の家の前を通り過ぎる拍子に、何とも云われないうまそうな、温かい匂(におい)が風に乗って流れて来ると、ひとりでに鼻の穴の内側が、一ぱいに拡がるような気持ちがした。
田舎の町の町外れに、叔母さんの家があって、古風な藁屋根で、入口には障子戸が嵌まっていた。私があんまり丈夫でないから、薬喰に牛肉を食べさせようと内所話が、そこの叔母さんと私の母との間にあったらしく、ある日の夕方、私と母は一緒に、俥に乗って叔母さんの家に出かけた。
家に帰ったら、決してだれにも云ってはならぬと云う事を、よくよく云い含められた上で、茶の間の畳の上にうすべりを敷いたところに座ると、叔母さんが、竹の皮包みの中から、白い脂の切れを取り出して、焼けた鍋の上を、しゃあ、しゃあと引いた。薄青く立ち騰る煙の匂を嗅いだだけでも、もう堪らない程うまそうに思われた。
牛肉をどのくらい食ったのか覚えていないけれど、後で口の臭味を消すためだと云って、蜜柑を幾つも食べさせられ、なおその上に、お酒を口に含んで、がらがらと嗽いをした後で、叔母さんの鼻先に口の息を吹きかけて見て、大丈夫もうにおわないと云うことになって、それから寒い夜道を俥に乗って、家に帰って来た。みんなが顔を見るような気がして、落ちつかなかったけれど、その時初めて覚えた不思議な味は、寝床に這入った後までも、密かに思い出して見て、何とも云われない、いい気持ちがした。
先だって、読売テレビの秘密のケンミンSHOWを観ていたら、岡山県津山市の「そずり鍋」が紹介された。岡山弁で「削る」ことを「そずる」といい、牛の骨に付いた肉をそずり(削り取り)、鍋にする。
そずり肉は、どの部位の骨かは決まってないようだ(この辺りがそずり鍋の妙である)。骨の近くはスジや脂肪が複雑に入り組み、旨味が濃いのが特徴だという。また、骨の周囲の筋肉は線維が細やかで味わいも深いらしい。出汁は醤油ベースで、野菜やキノコ、豆腐などもたっぷり。牛ダシの旨味や、牛肉の食感が楽しめるのが特徴だという。谷口圭三津山市長が「津山には1、300年近く前から牛馬の市が開かれ、明治12年の文献では牛肉が主要産物だと記載されている」と力説していた。津山と言えばご当地B1グルメの雄である「津山ホルモンうどん」もあるが、ともにチェックしておきたい逸品であろう。
ここで百閒の借金と牛肉にまつわるエピソードを嵐山光三郎の『文人悪食』(新潮文庫)から覗いてみよう。
二十九歳のときは、芥川の推薦で海軍機関学校のドイツ語教授となり、翌々年三十一歳で法政大学教授もかねるから、金廻りは悪いほうではなかった。しかし、借金癖はぬき去りがたく、法政大学の給料日になると、百閒に金を貸した相手がどっと押しよせて、給料日が恐ろしくなった。本来ならば、給料日は、金が入るのだから嬉しいはずなのに、百閒にあっては迷惑で苦しい日になる。
世間では名士で、かつ大学教授としての報酬を人並み以上に得ながらも、借金に追われたのは生来の浪費ぐせからで、四十五歳で法政大学教授をやめると、借金はいっそうかさむようになった。それでも、四十四歳のときに出版した『百鬼園随筆』が重版十数版に及び、小説や童話集も出版され、原稿依頼はつぎつぎと来るから、かなりの収入があった。
岡山の素封家に生まれ育って、なに不自由ない少年期を過ごした百閒にとっては借金による貧乏も一つの文学への修養だったかも知れない。
百閒は心臓と腎臓が悪く、主治医の小林博士から、牛肉を食べるなと言われて「牛の本質は藁である。藁を牛の体内に入れて蒸すと牛肉になる」と解釈し、牛肉のすき焼きを藁鍋と言いかえ、しきりに藁鍋を食った。「小林博士がいけないのと云われたのは、広く獣肉の事であって、其中でも猫や虎の肉が、腎臓には悪いと云うのであらう」。
田舎に引っ込んだ学生が、一貫もの猪肉を送ってきた。さっそく客を集めた。百閒の居間は三畳で、そこに卓袱台を置くから、客は一度に二人から三人までである。順番に客を呼んで、延べ十三人で六晩かかった。そのため、この期間は仕事が手につかず、「つくづく猪は害獣である事を知った」。
百閒は狷介だが、持ち前の茶目っ気や類い希なユーモアもあって、法政大学当時の教え子(百閒自身はこの呼称を嫌い「学生」と呼んだ)達から慕われた。還暦を迎えた翌年から、教え子らや主治医・元同僚らを中心メンバーとして、毎年百閒の誕生日である5月29日に「摩阿陀会(まあだかい)」という誕生パーティーが開かれていた。摩阿陀会の名は、「百閒先生の還暦はもう祝ってやった。それなのにまだ死なないのか」、即ち「まあだかい」に由来する。なお、この摩阿陀会に対する返礼として、百閒は自腹で「御慶の会」を正月三日に同じ会場(主に東京ステーションホテル)で催した。
黒澤明監督による映画『まあだだよ』(1993年)は、この時期を映画化したもの。この映画は黒澤明の83歳の遺作となった。黒澤映画には実在の人物を扱ったものが2作あるが、ソ連制作の『デルス・ウザーラ』と本作のみである。内田百閒役には名優松村達雄が演じているが、実際の百聞を知る人からは、本物のようだと言わしめさせたという。学生の一人は若い頃の所ジョージが演じている。
クソジジイは大変な愛猫家で、「ノラ」という雄の虎ブチ猫を飼っている。和蘭チーズを細かく削って御飯に混ぜてやったり、目糞がついていると云って硼酸で目をふいてやる。ところが、ある日庭の木賊の茂みを抜けて失踪する。それから目を覆うばかりの憔悴ぶりで、毎日泣いて寂しがり食事も喉を通らない。何度も新聞の折込み広告(英語版も)出したり、麹町界隈に張り紙をしたり、老夫婦は東奔西走する。三十五日目に思い切ってふろに入ると、二貫目(七・五キロ)も減っている。このいきさつを書いた随筆が『小説新潮』に『ノラや』という題名で発表された。ノラの声や姿が一瞬現れた気がする錯覚、幻視や、「今にも帰ってくる」という妄想などは、今日の典型的なペットロス症候群と思える。
百閒は晩年、クソジジイぶりを遺憾なく発揮して芸術院会員の推薦を断る。辞退の弁は「イヤダカラ、イヤダ」。昭和四十六年春、百閒は東京の自宅で十四年間、愛猫の帰還を待ちわびながら老衰で歿した。
初出:『肉牛ジャーナル』2023年8月号
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?