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牛肉を愛した偉人たち ⑪・小津安二郎

 小津安二郎は1903年(明治36年)に東京市江東区深川に五人兄弟の次男として出生した。
 日本の映画監督、脚本家。サイレント映画時代から戦後までの約35年にわたるキャリアの中で、原節子主演の『晩春』、『麦秋』、『東京物語』、『秋刀魚の味』など54本に作品を監督した。
 生家の小津新七しんしち家は伊勢松阪出身の伊勢商人である。小津が当時の尋常小学校に入学した時、子供は田舎で教育したほうがよいという父の教育方針と当時住民に被害を及ぼしていた深川のセメント粉塵公害による環境悪化のため、一家は小津家の郷里である三重県飯南郡神戸村(現在の松阪市)に4年生の頃に移住した。当時の小学校の担任によると、円満実直で成績が良く、暇があるとチャンバラごっこをしていたという。やがて小津は自宅近くの映画館「神楽座」を皮切りに映画に病みつきとなった。
 三重県で9歳から19歳まで過ごした小津は、1923年に松竹キネマ蒲田撮影所に入所する。24歳の時に「懺悔の刃」で監督デビューし、そして『生れてはみたけれど』、『出来ごころ』、『浮草物語』で3年連続(32年~34年)「キネマ旬報」の日本映画ベストテン第1位を獲得する。
 戦後、その評価は世界的に高まっていく。2012年には、世界の映画監督が投票で決める「史上最高の映画監督部門トップ100」において『東京物語』(53年)が第1位に選ばれ、英国映画協会が発行する「サイト・アンド・サウンド」誌に発表された。
 小津はアメリカ映画の影響を色濃く受けた作風で、映画評論家の佐藤忠男は小津がアメリカ映画から学び取った最大のものはソフィストケーション、言いかえれば現実に存在する汚いものや野暮ったいものを注意深く取り去り、きれいでスマートなものだけを画面に残すやり方だったと指摘している。
  小津映画の中にはさまざまな食べ物のシーンが出てくる。その一端を貴田庄『小津安二郎の食卓』(ちくま文庫)から覗いてみることにする。
 プロローグの「死とがんもどき」から始まり、以下「秋刀魚と大根、鱧、カレーライス、ラーメン、中華まんじゅう、鰻、とんかつ、おでん屋、寿司屋、パン、コカコーラと沢庵」などが列挙されている。
 今回は小津の得意料理?だったとされる〈カレーすき焼き〉を引用したい。
 
  小津の日記にはしばしば大勢で楽しく食事をしたことがしたためられて
 いる。(中略)人づき合いを重んじ、しばしば宴会を催した小津には得意
 な料理があった。それは「カレーすき焼き」である。田中絹代がとても美
 味しいとそのすき焼きを持ち上げたため、小津はこの料理を多くの人にふ
 るまった。ところが、あるとき、他社の俳優である池部良が、料理の作り
 手がだれか知らないので、遠慮なく、「誰がこんなマズイすき焼きを作っ
 た!」といって以来、小津はカレー味のすき焼きを作ることはやめたとい
 う(『絢爛たる影絵―小津安二郎』など)。これはかなり風変わりな小津
 独自の味覚を語るエピソードである。
  このカレー風味のすき焼きの誕生にはちょっとした裏話がある。伏見や
 えの思い出をかいつまんで紹介する。(中略)
  そのとき、小津や成瀬巳喜男など、蒲田撮影所にいた未来の監督たちが
 クララにやってきて、じゃがいもの皮むきなどをして、カレー作りを手
 伝った。夜が明けて騒ぎが終ると、彼らはおかずを作るのが面倒だから、
 自分たちはすき焼きをして御飯を食べたが、そのときに小津は残ったカ
 レーを階下から持ってきて、すき焼の鍋のなかにいれ、うまいから喰え、
 喰えといったという。これが池部良などの顰蹙を買ったカレーすき焼の正
 体である。実際のところ、小津がどこでこの奇妙なすき焼を覚えたのか
 はっきりしないが、すでに1930年頃には、カレーすき焼は彼のお気に入り
 の料理だったことは間違いない。松阪で十代を過ごした小津がすき焼を得
 意とするのはよくわかる。しかし、砂糖と醤油で味つけしたすき焼のなか
 に、最後の仕上げにカレー粉をまぶす小津風カレーすき焼。なんとも恐ろ
 しい手料理である。
  『早春』(56年)を最後に、小津映画にはすき焼が登場していない。こ
 の事実と池部良の言葉を最後に小津がカレーすき焼をやらなくなったこと
 と結びつけるのは、わたしの考えすぎ、想像のしすぎであろうか。池部良
 が小津映画に出演したのは『早春』が最初で最後である。
 
 確かに私も最近『早春』を観たが、妻と会社の同僚との不倫の三角関係に悩む池部良の存在がどうもしっくりこない。夫婦のすれ違いをテーマにした作品だが、池部良は終始平板を絵に描いたような立ち居振る舞いである。やはりあのカレーすき焼き事件が演技に微妙に影を落としていたのだろうか?後年、東映映画で高倉健と長ドスを持って外道やくざのもとへ最後殴り込みに行く『昭和残侠伝 死んで貰います』のカッコイイ、名優池部良の片鱗もない(それは当たり前か?)。
 さらに小津は「グルメ手帖」と呼ばれる飲食店の一覧メモを作成していたことで知られている。貴田氏の著した『小津安二郎 東京グルメ案内』(朝日文庫)は、そのメモと日記をもとに小津が好きだった料理店をめぐり、写真に収めたものである。
 とんかつ、鰻、そば、うどん、ロシア料理、佃煮、和菓子などの項目に分け、取材されている。現在でも残っている店が中心で、グルメガイドブックとしても使えるかも知れない。
 
  小津も人形町界隈には詳しく、「グルメ手帖」には牛肉だけでもこの町
 にある牛肉の名店「日山」 と堀留町にあった「長谷甚」の二軒を書き留め
 ている。「日山」(写真)は今も人形町通りと甘酒横丁の交差点近くに店
 を構え、店先では松阪牛などを売っているが、店内ではすき焼やステーキ
 を食べることができるようになっている。(中略)
  父の出身地である松阪で少年時代を過ごした 小津は、牛肉に詳しく、す
 き焼は好物だった。松阪に店を構えるすき焼の名店「和田金」の牛肉は、
 小津のもっとも愛するすき焼の肉だったようだ。 彼の日記には、わざわざ
 和田金の牛肉としたため ている箇所がいくつか発見できる。
  このような背景を考えれば、彼の作品にすき 焼が描かれるのは当然であ
 る。『麦秋』(51年)では、子供のいる医者との結婚を決心した紀子(原
 節子)の秋田 行きを控えて、すき焼による別れ の夕食をする。
 『東京物語』では、尾道から東京に住む子供たちのところにやってきた初
 めの日、すき 焼を食べるらしい。これは長女しげ(杉村春子) の「晩の
 ご馳走、お肉でいいわね、スキヤキ」という言葉からわかる。
 『早春』では、初めのほうにすき焼が登場している。主人公の杉山昌子 
 (淡島千景)の 家に立ち寄った友人の栄(中北千枝子)が、「なんだかお
 腹がすいて来ちゃった」というと、昌子「そうね。スキヤキでも食べな
 い?」栄「そうね、 お肉、あたしが買う」
 昌子「じゃあたしご飯たく」栄「百匁でいいわね」 昌子「充分よ。うち、
 いつも五十匁─」
 
 と会話が展開し、栄は買い物籠を借りて、外へ 出て行く。百もんめは375 グラムの重さである。また、この作品の中程に、下町の小料理屋で戦友の会があり、「犬おッ殺してお前、スキヤキでよく呑んだじゃねえか」「うん、うまかったよなア。おれ、帰ってから、あんなにうめえもん未だに食ったことねえよ」という台詞まで飛び出す。
 
 今年は小津安二郎の生誕120年・没後60年にあたる。日本各地で世界が愛した映像詩人への追悼特別展が開かれている。北から北海道立文学館、鎌倉芸術館、小津安二郎生誕120年三重連絡協議会(松阪市、伊勢市、津市)など。
 
 小津安二郎は頸部にできた悪性腫瘍がもとで、1963年12月12日、御茶ノ水の東京医科歯科大学付属病院で亡くなった。その日は奇しくも小津の生まれた月日であった。享年60歳、少し早い死であった。遺作は『秋刀魚の味』(1962年、松竹大船作品)。
 
 夕ざれば雪となりけり榾(ほた)の火の 燃ゆる囲炉裏に酒をあたゝむ
                          小津安二郎

                初出:『肉牛ジャーナル』2023年10月号
 

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