牛肉を愛した偉人たち ③・森鷗外
森鷗外(1862~1922年)は石見国(現在の島根県)津和野生まれ。本名林太郎。典医の家系。東大卒業後陸軍二等軍医となって22歳で4年近くのドイツ留学を体験。帰国後、訳詩集『於面影(おもかげ)』『即興詩人』、そして『舞姫』『雁』『高瀬舟』などを発表し、晩年は『渋江抽斎』などの史伝を残した。文学と医学の両面に金字塔を建て、明治のエリートとして国家の先頭に立った。
45歳で陸軍軍医総監となった鷗外は、高級料理店で会食する機会が多く、子どもらも連れて、まめに人気店に行った。現存する最古の西洋料理店である上野精養軒にも長男の於菟をよく連れていっている。
ちなみに鷗外の子どもたちに外国風の名前をつけており、子ども孫には樊須、真章、𣝣もいる。キラキラネームと草分けと思いがちだが、鷗外は本名の林太郎が外国人には発音しづらく苦労した経験から、世界に通用するようにとの想いを込めて名付けた。
鷗外が明治43年(1910年)に発表した『牛鍋』という掌編小説がある。
鍋はぐつぐつ煮える。
牛肉の紅は男のすばしこい箸で反される。白くなったほうが上になる。
斜に薄く切られた、ざくと云うの名の葱は、白い処が段々に黄いろくなって、褐色の汁の中へ沈む。
箸のすばしこい男は、三十前後であろう。晴着らしい印半纏を着ている。傍に折鞄が置いてある。
酒を飲んでは肉を反す。肉を反しては酒を飲む。
酒を注いで遣る女がある。
男と同年位であろう。黒繻子の半衿の掛かった、縞の綿入に、余所行の前掛けをしている。
女の目は断えず男の顔に注がれている。永遠に渇しているような目である。
目の渇は口の渇を忘れさせる。女は酒を飲まないのである。
箸のすばしこい男は、二三度反した肉の一切れを口に入れた。
丈夫な白い歯で旨そうに寛だ噬んだ。
永遠に喝している目は動く腭に注がれている。
しかしこの腭に注がれているのは、この二つの目ばかりではない。目が今二つある。
今二つの目の主は七つか八つ位の娘である。無理に上げたようなお煙草盆に、小さい花簪を挿している。
白い手拭を畳んで膝の上に置いて、割箸を割って、手に持って待っているのである。
男が肉を三切四切食った頃に、娘が箸を持った手を伸べて、一切れの肉を挟もうとした。男に遠慮がないのではない。そんなら云って男を憚るとも見えない。
「待ちねえ。そりゃあまだ煮えていねえ。」
娘はおとなしく箸を持った手を引っ込めて、待っている。
永遠に喝している目には、娘の箸の空しく進んで空しく退いたのを見る程の余裕がない。
暫くすると、男の箸は一切れの肉を自分の口に運んだ。それはさっき娘の箸の挟もうとした肉であった。
娘の目はまた男の顔に注がれた。その目の中には怨も怒もない。ただ驚がある。
永遠に喝している目には、四本の箸の悲しい競争を見る程の余裕がなかった。
鷗外はドイツ留学時代に近代細菌学の鼻祖とも称されるロベルト・コッホの元で北里柴三郎とともに公衆衛生学を学んだ。日本人として初めての衛生学の教科書『衛生新篇』(共著)に加えて、『陸軍衛生教程』、『衛生学大意』の「衛生学書3部作」を手がけた。因みにドイツではコロナ禍の今日でも、政府は「ロベルト・コッホ研究所」」の見解に耳を傾けているということである。
衛生観念を根付かせることが、人々の健康につながると考えた鷗外は27歳の時に医学誌「衛生新誌」を自ら手がけ、創刊号の巻頭では「衛生新誌の真面目」と題し、「公衆の健康は、政府の一大目的なり」と論じた。
こうした過程で多くの論考や著述を残している。ここでは「衛生新誌」に掲載された「服乳の注意」についてのぞいてみよう。
搾りとった牛乳の腐れ易いことは、世の知る所です。此腐敗は、原と細菌(バクテリア)(有機小体)という、下等の生活物の働きで、此生活物はリステルなどの経験に依れば、決して牛の乳房の中に溜(たま)って来る乳の中に居るものではありません。
此生活物は、牛の乳を搾り取る時に、乳房に附いて居る糞や、搾取所の桶や、売捌所の缶や、漉し布や、其外搾り手、漉し手の体が汚れて居るのと、塵埃の混って居る空気に触れるのから、這入って来るのです。(中略)
これなんかは伝染性乳房炎と環境性乳房炎の両者の特徴をいみじくも一筆書きで描写している。ただし、この論考は1889年(明治22年)に書かれているから、中略以降の記述も現代の科学的視点からすればいささか時代遅れとなっている箇所も見受けられる。
ここで私は以前に「日本獣医師会雑誌」発表した拙論文を思い出した。「Streptococcus gallolyticus subsp. gallolyticusが分離された黒毛和種繁殖牛の壊疽性乳房炎」又吉正直、船倉 栄、関崎 勉他、日本獣医師会雑誌、68巻(第5号)、2015(p.291-296)。これはS. g.g.が分離された国内最初の壊疽性乳房炎症例である。
臨床型乳房炎も鷗外の記述のような分類も普遍的に存在するが、中には上記のような希少例も存在する。
鷗外はこの小論の末尾に酪農家が随喜の涙を流さんばかりの文章で締めている。
乳は実に結構な食物です。一品で色々な食素を含んで居て、人の体を滋養するものは、此外にはありません。然し母乳の供給は、需要を満たすことが出来ませんから、勢い牛乳を以て之を補わざるを得ません。其牛乳が嘔吐を促すの、下痢を起こすのと云うのは、皆な牛乳に贖罪を負わせたもので、苟も正当の方法を以て、之を服すれば、利あって害なき事、受合いです。
鷗外はしかし、当時の感染症の猛威は、鷗外その人の家庭も容赦なく襲った。次男・不律が、生後六カ月で、百日咳により落命している。五歳の長女・茉莉も感染したが、幸い一命をとりとめた。こうしたこともあってか、森家の子どもらは、衛生には厳しくしつけられた。次女・杏奴はこう述べている。
私たちは実に多くの塵紙を用いた。便所の戸の開閉は一々この塵紙をあてて、恐るべき熟練さを以って少しも周囲の物に直接手を触れるような事はない。(随筆『晩年の父』より)
これでも、なお安心できず、鷗外は、子どもたちに、料理屋などで便所に行くときには「手を洗うには及ばない」とも言った。誰がさわったかわからない蛇口などに触れるより、いっそ、そのまま家に帰ってから石鹸でよく洗うほうが、感染のリスクは低いとも言っている。
この文章を書き始めた2022年は鷗外生誕160年、没100年に当たる記念の年であった。若干10歳前後で上京した鷗外は、大正11年6月萎縮腎と診断され、肺結核の兆候もでる。7月9日に「石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」という遺言を残して永眠した。享年60歳。
今回は、『文人御馳走帖』嵐山光三郎編、新潮文庫、『よみがえる森鷗外』毎日新聞出版を参考に供しました。
『肉牛ジャーナル』2023年2月号より
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