真実と常識の難しさ

先ほどYoutubeで【武田邦彦】エコカーのとんでもない真実!これを知ってもあなたはエコカーを買いますか?という番組を見ました。

論旨としてはエコカーなんて嘘っぱちということで、論拠は以下の3つ。

1. 石油はなくならないので節約の必要はない
2. 重いクルマは道路を痛める 
3. エコというが燃料費でイニシャルコストは回収できない 

という話でしたね。で、なんでそういうことが起きるのかと言えば、役人が補助金財源を手に入れるためで、そういうばらまきが出世の早道だからだ。というのが武田先生の読み解きでありました。なんと言いますか、そういう陰謀論が好きな人は多いですねぇ。

うーん。まあ本当は取り上げる必要がある話でもない感じなんですが、コメント欄を見るとほぼ肯定的なコメントで埋まっているわけです。そこからやらないとダメなのかしら。と思って、今回はちょっとレベルを下げて話をしてみます。

まずね。地球温暖化が進行中で、かつその原因はCO2であるという話。正直この2点に全く疑義がないかと言うと、ないわけではありません。ただし、現在の世の中を善き市民として生きていくのであれば、スタンダードはそこにあるということも理解しないといけません。ダーウィンの進化論には色々異論がついてますが、進化論は正しいとするのがコモンセンスというもので、コモンセンスはコモンセンスとして持ち合わせた上で、「常識を疑え!」という話でありまして、コモンセンスに一片の敬意もなく、かたっぱしから否定して、社会の相互理解と全く違うランドビューで諸々を捉えるのはマッドサイエンティストです。

例えば、北朝鮮の拉致あたりがまさにそうなのですが、現代国家が他国の一般市民を誘拐するなんて間尺に合わないことをしないだろうと考えるのがコモンセンスで、事態が発覚するまでそう考えていたのはコモンセンスを持ち合わせていた人でしょう。しかし、そこに極めて熱心に「いやウチの娘は北朝鮮に拉致されたのだ」と訴える人が現れた場合、「いやわれわれのコモンセンスは間違っていることもありうるな」という健全な疑いを持つスタンスも必要です。ただし、それは片っ端からコモンセンスに異説を唱えるというのとは違うんですよね。

だから、まあ石油資源は有限であると考えるのがコモンセンスで、武田先生がおっしゃる様に600万年分あるとか言われると、まあちょっとマッドな匂いに感じるわけです。実際石油というのは採掘費用が採算に合うかどうかが焦点で、採掘難易度が高く埋蔵量が少ない油田をちょこちょこ開発しても値段に合うなら、それは想定外に多い埋蔵量があると思いますが、1リッターあたり1万円とか出してまで欲しいかと言えばまあ無理でしょう。エネルギーがどんなに希少になっても今の数倍程度のコストで折り合わないと無いのと同じ。だから本質的な話をすれば「人類が利用できる化石資源」は有限なのです。ただし、それが40年で枯渇するとかの話は明らかに眉唾です。それは今のコストで採掘できる石油に限った話で、採掘技術の進歩でコストが低下したり、売価が何割か上昇すれば、採掘可能量は増えますから。

そして、ここからが本題になりますが、社会にはルールというものがあります。ソクラテスの言葉を引くまでもないですが「悪法もまた法なり」ということで、今、国連機関が定めたルールにパリ協定があり、それに基づいてCO2削減目標がある以上、それは守らねばなりません。若干の皮肉を込めていいますが、一応民主的手法で作られたルールです。仮に票を金で買ったとしても証拠がなければ追及はできない。民主的だということになります。

で、ここで武田先生はそもそもCO2排出量もICE(内燃機関)の方が低いのだとおっしゃるわけですが、ここはだいぶ説明不足でどういう論拠なのか不明です。しかし想像するにLCA(ライフサイクルアセスメント)で言っているのだと思います。

学校や会社で個人の能力を査定するとき、一定の測定ルールを作って序列にするのと同じで、環境負荷の測定方法は色々ありますし、万人に公平な方法なんてありません。その時その時の考えうる方法で良かれを尽くして行くしかないし、不公平が著しいとか、合理性を欠くのであればそれに対する改善案を出していくのが基本です。改善に資する提案もなく単純に否定するのは「受験勉強なんて生きていく上で役に立たない」みたいな批判で、まああまり耳を貸すに値しないと思うのです。

何がエコかについて、われわれには今の社会共通の測定ルールがあって、国連が指定した、あるいは国連の意向を受けた各国の機関が策定した測定ルールに沿って測定した結果をガイドラインに当てはめて、エコの判定ラインを作るのは何の間違いでもないし、そしてそれをより善きものに改定していく議論もまた社会をより善くしていく努力です。そういう努力を抜きに「あんなのは嘘っぱち」というのはただのスタンドプレーであって、民主的に決められた基準の中で善き社会を目指して努力をしている人たちに対する冒涜です。エコカーについて疑いを持つ姿勢は良しとしても、こんな身勝手な否定論に染められてはいけません。


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